ボルタンスキー展ほか

今回も掛け持ち出張の合間を縫っていくつかの展覧会を見ました。

■クリスチャン・ボルタンスキー展(国立国際美術館)

照明は消され、その所々で裸電球が光りまた明滅している会場に、心臓音、風鈴の音、叫び声(のようなもの。海に向けた収音機に集まるクジラの声?)が断続的に聞こえる。その中にある47ものインスタレーション作品を巡る。1969年からのボルタンスキーのスタイルをほぼ網羅した記念碑的展覧会だ。作品同士をつなげて見せたり、部屋を区切り独自の空間で見せたりしてあり、光、音、映像等とともに巡ることの臨場感も楽しめる。
生と死(今回は「来世」まである)、記憶、匿名性という根源的なテーマをこれだけ多くのスタイルで、そのどれもが重量感と密度を持って迫ってくる展示は見ごたえがあった。今までの経験で、ウームこれはどうかな?と思っていたものもいくつかあったが-例えば骸骨の影絵や海岸の鈴の音-今回は軽いほうのヴァリエーションとして、振れ幅のうちかなと思った。
しかしやはり無名の人々、時にはボルタンスキー自身も無名の一人として扱った作品に真の内容があるかな。心臓音や新聞の切り抜き、ピンボケの顔写真などのほかに、ボルタンスキーが今まで生きてきた時間を秒数としてカウントしている赤いネオン管の作品。その数字は、彼の死とともに止まる。壁の隙間からの覗いた部屋に置かれている多くの電球。それは毎日2個ずつ消えていく。等々。
それにしても来場者の半分以上が若い女性で、越後妻有や瀬戸内の芸術祭の影響か、かれは人気あるんだな。

ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展

■「霞はじめてたなびく」(佐藤雅晴、西村有、吉開菜央)
トーキョーアーツアンドスペース本郷

(個人的にですが、)佐藤雅晴さんの追悼のためにどうしても行かなくてはいけないと思っていた。佐藤さんががん闘病中で昨年余命宣言されていたことは、トーキョーアーツアンドスペース本郷のHPで彼自身が告白していて知っていたが、先日「六本木クロッシング」展の佐藤さんの「Calling」をFBにポストしたのは、作品に純粋に共鳴したからだ。逝去されたのはつい先日知った。
3階建てのギャラリーは1階ずつスペースが作家に与えられていて、1階が佐藤さん。《福島尾行》は震災後の福島の日常を淡々とまたゆっくりと描いている。(スクリーンの前のピアノが無人のまま低い音楽を奏でている)映像は所々アニメーション化されていて、季節の移ろいやその場の空気が身体的感覚を通してしみじみと浮かび上がってくる。もう1点《雪やコーヒー》はモノクロームアニメーションで、コーヒーに角砂糖を入れる瞬間がスローモーションで繰り返される。角砂糖にコーヒーが滲みこむ。何でもないがいつくしむべき人生がゆっくりと流れる。

佐藤雅晴
佐藤雅晴
佐藤雅晴

2階は吉開菜央さんの映像とテキストのインスタレーション。「石の話」や「金魚の話」など、はじめも終わりもない、目的も大したオチもない、ただたまたま経験したことを綴ったテキストが、自転車に乗る映像とともに並んでいる。生身の自分が風を切る身体感覚。その場でたまたますれ違ったものや経験したこと(金魚や石)。それは意味が発生する前の無垢でむき出しの世界だ。(余談ですが、吉開さんはあの米津玄師の「Lemon」のミュージックビデで踊っている女性だそうだ)

吉開菜央
吉開菜央
吉開菜央

3階は西村有さんの絵画。見た瞬間、「昨日VOCAで見た作品だ」と思った。その時もすごくいいなぁと思った。(VOCA他いくつかの展覧会レポートは後日HPのtopicsにアップしたいと思ってます)その場で見た景色ではなく、いつかどこかで見た記憶の彼方から染み出てきたような風景。直接描いていない。何が見えるのかわからないところからたどり着いたような風景。意識の底にある世界像。

西村有
西村有
西村有

この展覧会を見て言えることは、3人とも、何があっても何がなくても人生はいつくしむべきものだということ。そのやさしさにうっとりしてしまう。
佐藤雅晴さんのご冥福をお祈りいたします。

エルリッヒ展・野生展(2017.12.12)

○レアンドロ・エルリッヒ展 (森美術館)

エルリッヒ展は一人では行かないほうがいいよ、と友人から聞いていたけど、その通りだった。確かに面白いし、インスタ映えする写真が撮れるけど、一人では作品に入り込んだ時に、自分で自分が撮れない。キャッキャ言って写真を撮り合っているグループを見ると「チッ、うるさい」とか思ってしまう。
エルリッヒは基本、鏡と空間と映像を使い錯覚を起こし、虚実をないまぜにして、人間が「こうであるはずだ」と思う既成概念を壊してしまう。人の感覚や行動がいかに慣用に囚われているかを暴く批評性があるから美術になっている、とか思っていたら、最後の「建物」は理屈抜きで面白い。単純な仕掛けなのになんでこんなに楽しいのかってくらい。これは誰かと来ないとインスタ映え写真が撮れないよ。

エルリッヒ展
エルリッヒ展
エルリッヒ展
エルリッヒ展
エルリッヒ展

それから、こんなこと書いていいのかわからないので、カッコに入れて書くけど、エルリッヒ展を出て同じ階で開催していたMAMコレクションとプロジェクト展のハンディウィルマン・サプトラやディン・ミッチェルの作品、はたまたミュージアムショップでやっていた長井朋子の作品が面白いと言うかすごくて、ひょっとしたらエルリッヒよりもいいかも…と思ってしまったのは残念なことなのか、それともエルリッヒを見に来たからこれらの作品も見られたと喜ぶべきなのか…

ハンディウィルマン・サプトラ
ハンディウィルマン・サプトラ
ディン・ミッチェル
ディン・ミッチェル
長井朋子
長井朋子

○野生展(21_21デザインサイト)

もう結構歳とったし、最近は風邪から中耳炎になったりで、すっかり元気がなく、これを見ても野生的になれるなんて考えてもいないですが、どんな展覧会だかよくわからないところに惹かれて入ってしまった。
この展覧会の「野生」の基本的な解釈は、南方熊楠の「縁起」という概念に因っている。「縁起」とは西洋近代科学的な固定された因果関係で物事を理解するのではなく、世界の実相を潜在空間に隠されている部分も含めたネットワークでできているとするもの。その「縁起」ネットワークを結合する「脳力」の力で野生を生み出すことが出来ると考えるらしい。この「縁起」の世界では対立関係はなく、全体が部分であり、生が死でもある。
そのようなダイナミックな生命感から、展示には古代の土偶があったり、未開の地のお面があったりする。でも、総じて展示がソフィストケイトされているといってもいいくらい整然としているので、理性を超えた野生的エネルギーは伝わってこない。こんなテーマなら、主題と形式を一致させようとは考えなかったのか。いっそどこか制御できないくらいの展示手段があってもいいのではないかと思ってしまうが…まぁ無理か。でも、どこから生まれるのかわからない色と形で妖しく魅力的な絵本を作っていた田島征三が、植物を使ったインスタレーション作家として華麗な変貌を遂げている姿や、僕らの時代のヒーローの一人である黒田征太郎の、衰えを知らない作品(やっぱり少し衰えたかな)を見られたのだけでも行ってよかった。

野生展
野生展
野生展
野生展(田島征三)
田島征三
野生展(黒田征太郎)
黒田征太郎
野生展
野生展

2017CAF.N展 作品集巻頭言(2018.8.21)

私がほぼ毎年出品しているCAF.N展は、展覧会ごとに毎回作品集を作成し、記録を残すことを会の活動の一つにしている。その巻頭言は、今までこの会に関わってこられた多くの評論家や美術関係者に執筆をしていただいている。古くは元埼玉県立近代美術館館長の田中光人氏や、長くこの会を見ていただいている金沢毅氏をはじめ、赤津侃氏、谷新氏など多くの評論家が巻頭を飾ってきている。
長年のこの作品集の編集の中で、今回初めて出品者による巻頭言を載せようということになり、CAF.N協会が埼玉美術の祭典と言っていた時からの古いメンバーである私に話が回ってきた。私はCAF.N会員であり、現に近展覧会にも出品している立場なので、書けることと言えば,埼玉美術の祭典以来の実際の会内部の様子や変遷と、それに関わった私の実体験である。それを基にこのCAF.Nという会を少し内省的にまとめてみた。
以下が2017CAF.N展作品集に載った巻頭言です。
(なお、展覧会の様子は「exhibition」の「2017CAF.N展」をご覧ください。)

30数年にわたるつき合い-CAF.Nが求めるもの&CAF.Nに求めるもの

新井知生

埼玉県の高校教員に就職して3年目の1983年11月、第6回埼玉美術の祭典(現CAF.N)コンクール部門に応募し優秀賞を受賞した。審査は公開で行われ、審査員には当時バリバリの美術評論家であった瀬木慎一、林紀一郎、ヨシダヨシエ氏らがいた。
私はその受賞の知らせを修学旅行引率先の京都で聞き、その帰路、東京駅に着くと、そのまま前年開設された埼玉県立近代美術館での授賞式に向かった。それが30数年にわたる現CAF.N協会との長い付き合いの始まりだった。

その後、組織はより全国的な体制へと発展し「現代美術の祭典」と名称を変えた。私自身はそのスタッフメンバーとして出品を続け、1987年には、10周年記念誌の編集発行に携わった。
リーダー(その後協会代表)の小野寺優元氏と、コンクールを通して集まった同年代の若手作家とともにあたる編集作業は、この新しい美術運動への参加が、まだ何者でもない私たちを後押しし、また未来を祝福しているような幸福な時間を与えてくれた。

1989年には名称をC・A・Fと変更し、この活動の第3期に入った。作家主体の自主企画展は必ずマンネリ化するか崩壊する。そうならないため、同じメンバーで同じことを繰り返さないこと、また公募団体のようなヒエラルキーを持った制度にしないことがこの団体設立の理念であり、それは必然的な脱皮だった。
方法論として、参加者を固定せず毎年入れ替える、10年で解散する、シンポジウムを通して社会にこの運動を発信することなどの改革案が挙がった。
公募展、コンクール、個展、グループ展等それぞれの発表形態が花開き、その中で作家が競い合っていた時代だった。各作家は自分の作品の評価を得るために、個々の個性に基づくスタイルや世界観を必死にアピールしていたが、それゆえにその過熱化した争いは、技術や素材の過度の主張となり、果ては新奇性や小さな差異を求めるようになった。そして評価を得たスタイルに固執する現象も見られた。私もいろいろな展覧会にちょこちょこ手を出してはいたが、それらはエネルギーに満ちたものでもあった反面、ある種の不毛さも漂わせていた。
その中で、CAFは1年に一度帰るべき場所だったような気がする。ここだけは戦いの場ではなく、自分にとっての価値観をそのまま素直に提示できる場だった。創作活動本来の自己目的性をそのまま展覧会の価値体系にしている稀有な団体だったのだ。

2004年に10年間のC・A・Fの活動を締めくくり、CAF.N(ネビュラ)に組織改編した。
「ネビュラ(Nebula)」とは「アートの交流を渦巻き状に展開する」という理念による命名だった。その理念の下、私自身2007年に「CAF.N松江展」を開催した。その際には、狭いセクトに捕らわれず表現の現代性と多様性で人選することを基盤にし、この地域に現代美術の在り様を示すことや、美術家同士や地域との交流などを求めて企画運営した。それは一応はできたとは思うが、地方展の開催にはいくつか疑問が残った。

それとは別にこの団体が目指すものは、表現の現代性-同時代としての現代美術たりえているか-を問うこと、つまり美術の動向に対する開かれた目を持つ姿勢なのだと思う。それが、内部の評価を得ることに気を配るような公募団体の閉じられたシステムとの相違点である。
それは芸術や娯楽の相互浸透や総合が行われているこの時代にあって、自らの制作メディアとスタイルが、他のあらゆる表現形式の中で、なお「世界と人間」を表すのに足る力を持ち得るかを問うことである。美術が現代において、IT機器や他の形式では到達し得ない世界の様相や、人間の心の不可知な部分への浸透を可能にさせる優れた形式であることを、証明して見せなければならない。

美術という形式の価値を、個々の作家が表現の中で証明しつつ集うことが現在のCAF.Nの使命であると考える。またそれが自分自身の存在証明でもあると思っている。

ヨーロッパ2大芸術祭見学ツアーレポート(8/31-9/14)
④
Damien Hirst

「Treasures from the Wreck of Unbelievable」
ヴェネツィア・ビエンナーレ関連企画、話題のダミアン・ハーストの「Treasures from the Wreck of Unbelievable」を見ました。
まぁ何と言うかここまでやるか。
難破船から引き揚げられた財宝は、何千点もの古今東西の歴史的遺産。数百年海底に埋もれていたので、珊瑚や貝などがこびり付いている。この歴史的な発見は、引き揚げの一部始終がビデオで記録される。
よく見ると引き揚げモノの中に、珊瑚に埋もれたグーフィーやガンダムがある。
他にも、財宝の中にこんな歴史的事実はないだろうと首を傾げる様なモノも混じっている。
膨大な資金と時間と労力をかけた世紀の大ペテン。賛否両論あるようだけど、こういうバカバカしさ、ナンセンスは私は嫌いではない。
ハースト曰く、
「Somewhere between lies and truth lies the truth」
グラッシ宮とプンタ・デッラ・ドガーナの2ヶ所での展示だったが、ヴァポレットに乗りまくってヴェネツィアを楽しみながら回った。特にプンタ・デッラ・ドガーナは安藤忠雄の建築の現代美術館で、そうでなくても行きたいところだったので、展示とともに、内部空間の素晴らしさに感激。

ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展
ダミアン・ハースト展

ヨーロッパ2大芸術祭見学ツアーレポート(8/31-9/14)②

2019.9.6

カッセルから電車でミュンヘンまで南下しました。そして今日はそこから日帰りでザルツブルクに行って来ました。
朝、駅で往復切符を買う。海外旅行者用の割引チケットにすれば、超超安いです!往復で12ユーロくらい。

高校生の頃、勉強もソコソコに、夜な夜なクラシック音楽を聞いていました。ごく一般的な愛好家の域を出ていないので、有名な作曲家の曲しか知りませんが、一番好きな作曲家は何と言ってもモーツァルトでした。
軽妙で屈託がなく、計画や熟慮というような痕跡なく、まるで天から降りて来たように調べが溢れるモーツアルトの音楽。モーツァルトは音楽を作るのではなく音楽と一体化している。それが作る側も聞く側も至福の時をもたらすと思っています。

ザルツブルクと言えばモーツァルト。そのモーツァルトの生家と育った家に行けた格別な旅でした。
(旧市街、大聖堂前でシュテファン・バルケンホール、ザルツブルク市立美術館でウィリアム・ケントリッジに遭遇)

ザルツブルク
ザルツブルク
ザルツブルク
ザルツブルク
ザルツブルク
ザルツブルク
ザルツブルク
ザルツブルク
ザルツブルク
ザルツブルク

ヨーロッパ2大芸術祭見学ツアーレポート(8/31-9/14)①
カッセルドクメンタ

8月31日から9月14日まで大学のサヴァティカル研修をいただいて、カッセルドクメンタ、ヴェネチア・ビエンナーレに行ってきました。今年は10年ぶりでこの2大芸術祭が同じ年に開催されるということで、見逃さずに行けて幸運でした。
まずはカッセルドクメンタから。

丸2日かけてタップリ見て回りましたが、週末だったせいか、どの会場もかなりの行列で、待つ時間も多かったです。
ドクメンタは退廃芸術展が元になっていることもあって、政治的な関わりや歴史の検証を含んだ作品が多いので、少し前の作品も参照されるように並んでいるし、スケールの大きさで圧倒する様なものではなく、マイノリティーの問題や記録性を持った作品が多かった気がします。
このことについての賛否の意見もいろいろな批評で出ていますが、私が初めてここに来た感想としては、とにかくこの活気が楽しい。特に私より明らかに年上のおばさま方が多く、その皆がジーンズとスニーカーを着こなして颯爽と会場を歩く姿を見ると、じぶんももっと楽しまなきゃと思ってしまいました。

カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ
カッセルドクメンタ

東松照明展(2016.5.28-7.18) 広島市現代美術館

広島市現代美術館
広島市現代美術館

東松照明は原爆で荒野になった長崎のその再生の歴史や風土、催事などを50年にわたり撮影し続けた写真家として知られているが、この展覧会も1960年から2008年頃まで撮り続けた「長崎」に特化した写真展だった。

東松照明展入口
東松照明展

私は、写真畑の写真家というか、カメラが先にあって写真を撮っているような(こんな言い方は語弊があるかも知れないが)写真家、例えば(私の中では)東松照明も含めて、奈良原一行、森山大道、土門拳などを指しているのだけど、彼らの写真はよくわからない。というか、見ても心が躍らないというところがあって、どちらかというと苦手だなぁと思っている。
一方、同じ写真作品でも美術畑というか、美術の文脈から出てきて写真というメディアを使っているアーティスト、例えば(私の中では)ヴォルフガング・ティルマンス、ベルント&ヒラ・ベッヒャー、アンドレアス・グルスキーなど、写真が美術のメディアとして確立したポスト・モダン型の写真には、身も心もガンガン反応して十分堪能してしまう。
また写真家でも「わかる」と思えるような人もいて、荒木経惟は写真家と言うしかないと思うけど、自分を全面的に開放し、その上で作品を何かに委ねたような写真手法から、ホントやさしい人だなぁと、人間の根底に触れ合える喜びを持てる。植田正治は群像の形や存在感と砂丘などの空間、調子(光と影)の対比など、絵画的な造形理念と合致してしまうのでわかりやすい。
最近見た日本の若手、鈴木理策や川内倫子などは写真ベイスト写真家だろうが、その手法は写真で何かを表すのではなく、写真に写されたものの隙間に潜む生と宇宙の秘密的感覚をどこかに宿すような写真で、このような感覚は美術ベイストの私もよくわかる。
ということでつまり私は、写真そのものが求める形式と内容の関係、あるいは成立の原理というものは分かっていない(それも一つで括れるものでもないと思うし、ドキュメント-役割としての価値もある)のですが、今回の東松照明を見て、特に1970年代半ば以降の長崎の風物には見ていくうちにググッとくるものがあった。もちろん美的、造形的原理もなくはないのだけどそれに収束せずに、何でもないものを、意図までも廃し、つまり匿名的に淡々と写し、それでいて人間の生のかけがえのなさに思い至らせる力があるような気がした。とてもよかったです。
企画展は写真撮影禁止なので、常設の展示風景をいくつか。

常設展展示風景


常設展展示風景
常設展展示風景


常設展展示風景

それから写真がわからない私が現代美術館近くで撮ってしまった、いわば写真の埒外の写真を最後に一枚。(よく見ると猫がいます)

埒外の写真

■第15回個展/2015.4.29-5.18 山口画廊 千葉市

[exhibition]で記録した山口画廊での個展の番外編です。

今回の山口画廊での個展ではFBにイベントページを立ち上げて「友達」を招待してみました。https://www.facebook.com/events/1568690973385294/

下の文章はそのイベントページの紹介文です。

「千葉市の山口画廊での4年ぶり5回目の個展です。
小品を34点ほど展示します。
今回の個展には「通り過ぎる風景」というタイトルを付けました。
「通り過ぎる風景」とは人の意識や記憶の中で現れては消える景色のようなものを言っています。
人はその内側に意識や記憶があります。また外側には別の世界があります。でも人と外界とは分かれているわけではなく、それぞれがそれぞれを反映しあい、私たちは内なる意識と外なる世界の関係性の中で生きているのはないかと思います。
また人の存在とは世界と接触したその意識や記憶の積み重ねではないかと考えています。
今回の個展では、私が外界と関わる中で私の意識を通して像となったものを絵画として提示するものです。
お近くの方は是非お立ち寄りください。」

展示風景1
(展示風景1)

そして5月18日に個展が終了した時、このイベントページに次のようにPOSTしました。

「5月18日で個展が終了しました。

ご来廊の皆さま、またこのページからの発信にお付き合いいただきました皆さま、ありがとうございました。

今回の制作は、どう描くかという構想もなく、予期せぬものに反応して描き、また出てきたものに続けて描くという作業をしました。いずれどこかに帰結するだろうという、少しの自信と期待がありましたが、なかなかそうはいかず、何度も壊しては描くことの繰り返しになりました。その中で新しい形と空間が生まれたと思うこともあり、またいつもの自分の持っているものが出てしまったとがっかりすることもあり、結局こんなところに辿り着いたというのが今回の作品でした。
今頃になって自分を知るいい修業になりました。

山口画廊のオーナー、山口雄一郎氏にはいつものように、自分の勝手な制作を暖かく見守っていただきました。山口画廊のHPにも硬質な文章で紹介いただいています。
「PRESENT」http://www.yamaguchi-gallery.com/present/
「REVIEW」−花でしかありえぬために−
http://www.yamaguchi-gallery.com/画廊通信-vol-139/f

また今回久々の関東での個展ということで、プライベートでも、大学時代の同級生や先輩、後輩と何十年振りかで会えたり、元同僚や教え子、今の教え子たちに来てもらったりと、楽しい再会の時間が過ごせました。

皆さまいろいろとありがとうございました。」

展示風景2
(展示風景2)

小品の個展はここのところやってなかったので、かなり制作に戸惑い、上に書いたようにそれこそ何十回となく描き直しました。どこまで行けば自分の作品になるか分からず、暗闇をさまよっているようで、徒労とも思えるような時間を重ねました。
それで出てきたのがこれですから、まぁこれは結構自分なんだろうなぁと納得せざるを得ません。画面上の構成を排することを考えながらやっているのですが、どうしても構成してしまうこと、もっとグレイッシュとかディープな色が使いたいと思っているのに、明るく優しい色使いになってしまうこと、空間の整合性が気になることナドナド・・・・それから後で気づいたのですが、驚いたことに、高校の時出会ったニコラ・ド・スタールが長い時の流れを経て、自分の中に残っていたのだという事実。高校生の時、毎日石膏デッサンに明け暮れ、いつも暗くなってから1人とぼとぼと帰って行ったその帰り道の本屋で初めて見た美術手帖のニコラ・ド・スタール。あの時の衝撃は忘れられません。あの単純化した色彩に込められた乾いたセンチメンタリズム・・・・・うーむ、私にとって近代はなかなか超克できないものなのだ。

通り過ぎる風景No7
通り過ぎる風景No7
通り過ぎる風景No9
通り過ぎる風景No9


通り過ぎる風景No10
通り過ぎる風景No10
通り過ぎる風景No15
通り過ぎる風景No15

あいちトリエンナーレ(2013.9.25)

今まで大規模なアートフェスティバルへは、2003年8月の越後妻有トリエンナーレ、2005年11月と2008年11月の横浜トリエンナーレ、2010年9月の瀬戸内国際芸術祭と見てきて、それぞれ面白かったし感動した。もちろん難点もあったろうがガッカリしたことはなかった。それは、どのフェスティバルからも芸術による人生と世界への賛歌が聞こえてきたからである。
これらの祭典で見られるように、現代美術は今までの形式や展示方式を大きく変え、作家と観客とのコミュニケーションの形も、双方向のダイナミックなものに変えた。そしてその新生された環境の中で人間と世界の真実と在り様を照らし出し、それが僕らに生きるに値するいとおしいものであることを力強く訴えかけるものとして確かに存在している。
今回のあいちトリエンナーレも震災後の芸術の在り様を希求し、またそれだけでなく現代に生きる意味と感覚を照らし出していた。こんな展覧会を見るたび現代美術に関わってきて良かったなと思う。私自身は近代絵画に影響されてから、それを自分の中で乗り越えるのに苦労はしてきたが、それでも、”今””ここ”の表現を思う存分吸収するところまでたどり着いたことを幸せだと思う。
実際に見てからずいぶん経ってしまったがここに作品をいくつか紹介しておきたい。

  1. 栄エリア(愛知芸術文化センター)
    • ①ヤノベケンジ「ウルトラ・サン・チャイルド」
    • ②ソン・ドン「貧者の智慧:借権園」
    • ③ソ・ミンジョン「ある時点の総体」
    • ④ヤノベケンジ「太陽の結婚式」
    • ⑤オノヨーコ
  2. 白川公園エリア(名古屋市美術館)

    • ⑥青木淳
    • ⑦アルフレッド・ジャー
    • ⑧藤森照信「空飛ぶ泥船」
  3. 納屋橋エリア

    • ⑨青木野枝
    • ⑩名和晃平
  4. 長者町エリア

    • ⑪シュカルト「あなたがこの道を通るたびに物語ができる」
    • ⑫ザ・ウィロウズ
    • ⑬山下拓也
ヤノベケンジ「ウルトラ・サン・チャイルド」
①ヤノベケンジ「ウルトラ・サン・チャイルド」


ソン・ドン「貧者の智慧:借権園」
②ソン・ドン「貧者の智慧:借権園」
ソ・ミンジョン「ある時点の総体」
③ソ・ミンジョン「ある時点の総体」


ヤノベケンジ「太陽の結婚式」
④ヤノベケンジ「太陽の結婚式」
オノヨーコ
⑤オノヨーコ


青木淳
⑥青木淳
アルフレッド・ジャー
⑦アルフレッド・ジャー


藤森照信「空飛ぶ泥船」
⑧藤森照信「空飛ぶ泥船」
青木野枝
⑨青木野枝


名和晃平
⑩名和晃平
シュカルト「あなたがこの道を通るたびに物語ができる」
⑪シュカルト「あなたがこの道を通るたびに物語ができる」


ザ・ウィロウズ
⑫ザ・ウィロウズ
山下拓也
⑬山下拓也

ONE MORE CUP OF COFFEE [下]

空と樹木

 僕が「C」を利用した時間は、僕が僕の中へ中へと堀り進むための、その絶対的孤独な時間だった。自分にとって自分こそがこの世の中で一番得体の知れない存在だった。得体の知れない自分と、得体の知れない自分を見ている自分が「C」でのみ静かに出合え、交感できた。「C」の中二階の一番右側の一番後ろの席の窓からは、夕日のあたる樫の木が見えた。その樫の木はか細いながらも、そこには確固たる存在の美しさがあった。僕はその光景を今でも、中原中也の「ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。」(1)という詩の一節とともによく思い出す。
 「C」に通った回数が二百数十回を数えたころ卒業を迎えた。卒業制作はとりあえず種々のがらくた−タイヤ、鉄くず、紙、枝、壊れた機械等−を画面いっぱいに積み上げた作品を二点描いて提出した。評価は悪くなかったが、描写に頼ったその作品に僕は何の満足も感じなかった。
 大学を追い出された僕はどこにも行くあてがなかった。同級の女子学生達が必死に教員採用試験を受けたり会社訪問をしていた夏に、僕はのんきに北海道を旅行していた。今、思い起こそうとしても当時自分が就職に対して何を考えていたのかまったく覚えていないのだ。あきれた話だが、自分が大学を出て何をするのかなど考えてもいなかったようだ。僕がB型人間だからなのか、自分のやりたいことしかできないわがままな人間だった。絵が描けない状態で、他の人生設計など思いもつかなかった。
 しかたなく関東の地方の大学の試験を受け、あと2年だけ社会に出るまでの猶予を作った。虫のいい選択だったがそれでもいい知れぬ敗北感を背負って上野から1時間ほどの地方都市に引っ越した。そこでの2年間は、月曜から金曜まで制作に明けくれ、そのうち火曜と木曜の午後子ども相手の絵画教室を開き、土、日曜は東京に出るという生活だった。講義にはまったく出ずほとんどの単位を落とした。東京では友人の家を泊り歩きながら、以前と同じように映画や展覧会を見、麻雀やデートをし、「C」にたびたび立ち寄った。都会の雑踏になれきってしまっていて、そこに身を置くことで安心した。

歩道

 そんな生活を始めてから半年ほどした頃、「C」がとり壊されるという噂を耳にした。ショックだった。真偽のほどを知りたいと思っていると、新聞の夕刊に「C」とり壊し反対運動の記事が載った。店のオーナーが採算のとれない「C」をつぶし、当時爆発的に流行していたインベーダーハウスにしようとしているという話だった。「C」の愛好者は多かった。常連ばかりだった。その人たちが集まって抗議に行ったという内容だった。それ以上のことはわからなかったが、とにかく「C」はその存在の危機にあることは確かだった。その週末、「C」のドアをおした。いつものように2時間ほど本を読んで過ごし、レジに行ってその当時220円となっていたコーヒー代を払いながら、レジ係の女性に話しかけた。その女性は僕がここに通いはじめたときからずっとレジをやっていて、お互い顔は知っていたが、今まで一度も話をしたことがなかった。やせていて短髪で落ち着いた感じの品の良い中年女性だった。新聞記事のことから話を始め今の様子を聞くと、もうどうにもならないということだった。オーナーは新宿や池袋に持っているパチンコ店やレストランで収益を上げ、「C」は採算度外視でやっていたが、もうそういう訳にもいかなくなった。ゲームセンターになるのは必至だった。話をしているうちに僕はいつのまにか、自分がどれだけ「C」を愛し、自分にとって「C」がどれだけかけがえのない存在であるかを力説していた。強いロ調になっていた。彼女は私に言われても困ると言った。そんなことはわかっていたが、どうにも自制できなくなっていた。言いたいことを吐きだすように言ってしまうととび出すように外に出た。彼女の「ここがとり壊されたら私もやめます。」という声を背中で聞いた。小走りで駅に向かい、池袋駅前の交差点の赤信号で立ち止まったとき、ふいに涙が落ちた。

半年後、「C」はインベーダーハウスになった。古く落ち着きのある建物は全部とり壊され、近代的ビルに変わり周囲に調和した。その後2年ほどでインベーダーゲームが下火になると今度はレストランに変わった。僕は「C」がなくなって以来、池袋でおりることはほとんどなかったが、先日サンシャインビルに行く用事があって、かつて「C」があった辺りを通った。サンシャインシティに続くその辺りは、僕がいた頃とは風景が一新されていた。僕たちがよく通ったコンパや定食屋が姿を消し、ハンバーガースタンドになり、映画館ができ、舗道がカラフルなレンガで敷きつめられ、それが60階建てのビルまで続いていた。あの頃のうらびれた暗さはみじんもなかった。今では流行でしかなくなったミニスカートをはく10代の女の子達の明るい笑い声に包まれながら僕は周囲を見渡したが、レストランもなくなり、どこに「CONCERT HALL」があったのかさえわからなくなっていた。

 リチャードーブローティガンというアメリカの作家の言葉に、「時には人生はカップ一杯のコーヒーがもたらす暖かさの問題」(2)というのがあって、僕はその言葉がとても気に入っている。僕は今でも酸味の強いコーヒーが好きです。

(1) 中原中也「いのちの声」−中原中也詩集「山羊の歌」−より
(2) 村上春樹「象工場のハッピーエンド」より

夕焼け
 
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