国立国際美術館の開館40周年記念展「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」
2018年1月21日(日)―5月6日(日)

大阪の国立国際美術館が、今年で開館40年を迎えるという。

1977年の開設から2004年までは万博公園内の民族博物館の隣にあった。万博記念公園駅でモノレールを降り、遊園地を右手に見て、歩道橋を渡り、万博公園に入って、太陽の塔の脇を通り抜けたところだ。ちょっと遠かったけど、公園内を歩くのも楽しかった。
2004年に一等地の中之島に移転し、地下型美術館として再開した。ミロの陶板壁画とカルダーのモビールはそのまま入口階に飾られている。開館記念展の大規模な「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展に象徴されるように、移転後は、より現代美術の様相をヴィヴィッドに紹介する美術館として、独自の存在感を放っていると思う。
近くにフェスティバルホールができ、また平成33年にはすぐ隣に新美術館(近・現代美術)ができるそうで、あの辺りはますます楽しみなスポットになってくる。

その国立国際美術館の開館40周年記念展として、「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」が先週から始まった。先に、先日観てきた感想から言うと、正直あまり面白くなかったかな。展示の半分は1960年代からの収蔵品で、半分は招待作家の作品。よくある記念展のように、大物アーティストの代表作品を総花的に、というのを避けたかったのかもしれないが、かなりレアで地味な感じだった。塩田小春やアブラモビッチが昔はこんな作品を!的な、蔵出し的な感じ。せっかくの大規模展なので、もうちょっと楽しませてくれてもいいのに、とミーハーな私は思ってしまった(「個人の感想」です)。たまたま関川航平のパフォーマンスが見られたが、それはとても良かった。今回パフォーマンスとビデオ作品が多く、パフォーマンス(上演時間に注意)や長いビデオ作品をゆっくり見るというのが良いかもしれないです。

で、これからが本題ですが、地下3階の会場入り口から入って、ラウシェンバーグ作品の次に、ドイツの女流インスタレーション作家、カリン・ザンダーの《見せる:国立国際美術館のコレクションを巡るオーディオ・ツアー》という作品がある。そこに行くと、広い壁面には何も飾られておらず、鑑賞者は皆ヘッドフォンをして壁の前でうろうろしている、というなんとも不思議な光景に出会う。壁をよく見ると小さく作家名と番号が貼られていて、その番号をヘッドフォンの付いた音声ガイド機器に入れると音声が流れ、皆それを聞いているのだ。つまり、その音声は、壁に飾られるはずの作品を何らかの《音》で表したもので、鑑賞者は作品を見るのではなく、聞くのである。

実は、その中に私の作品もあるのです。昨年10月にザンダーから音声による作品の提供を文書で依頼された。そこには「あなたの作品を音声に置き換えて、それを『見える』ようにして下さい。提供いただくのは、何かの音でも、何かについての説明でも、何かを読んでいただいても、あるいは音楽でも構いません。聞くことができれば何でも結構です。」とあった。私は、自分の身の周りにあるもの-日常的な具体物-を使って音を鳴らし(空気を振動させ)、聞いてみると何の音かよくわからない、「Neutral Space」と題した音の作品を作りました。もし機会があったら004番を聞いてみて下さい。2分程度です。

人の作品の一部になるというこの体験は、私にとっては貴重な体験だったし、こう言ってよければ、とても幸福な体験だった。アーティストはいつも自分の作品を生み出すことばかり考えざるを得ない、いわば因果な宿命にあるので、それを人のために提供するというのは(もちろんコンセプトに共感・賛同できるからだが)、なんとすがすがしく、喜びにあふれたものなのか。創作以外でも、こんな気持ちで生きられればと思う。

この「音の作品」には、141人のアーティストが参加しているのだが、驚いたことに、その中には海外からはギリックやライアン・ガンダー、ティルマンス、李禹煥、etc.、日本でも加藤泉や、束芋、森村康昌などのビッグアーティストが名前を連ねている。これは私の想像だが、彼らも嬉々としてこのプロジェクトに参加したのではないか。彼らほどの大物でも、ザンダーの作品の一部になることに喜びを感じているのではないか。こう考えるととても気持ちがホンワカするのである。

ラウシェンバーグ
ラウシェンバーグ
大竹伸郎
大竹伸郎
大竹伸郎
大竹伸郎

エルリッヒ展・野生展(2017.12.12)

○レアンドロ・エルリッヒ展 (森美術館)

エルリッヒ展は一人では行かないほうがいいよ、と友人から聞いていたけど、その通りだった。確かに面白いし、インスタ映えする写真が撮れるけど、一人では作品に入り込んだ時に、自分で自分が撮れない。キャッキャ言って写真を撮り合っているグループを見ると「チッ、うるさい」とか思ってしまう。
エルリッヒは基本、鏡と空間と映像を使い錯覚を起こし、虚実をないまぜにして、人間が「こうであるはずだ」と思う既成概念を壊してしまう。人の感覚や行動がいかに慣用に囚われているかを暴く批評性があるから美術になっている、とか思っていたら、最後の「建物」は理屈抜きで面白い。単純な仕掛けなのになんでこんなに楽しいのかってくらい。これは誰かと来ないとインスタ映え写真が撮れないよ。

エルリッヒ展
エルリッヒ展
エルリッヒ展
エルリッヒ展
エルリッヒ展

それから、こんなこと書いていいのかわからないので、カッコに入れて書くけど、エルリッヒ展を出て同じ階で開催していたMAMコレクションとプロジェクト展のハンディウィルマン・サプトラやディン・ミッチェルの作品、はたまたミュージアムショップでやっていた長井朋子の作品が面白いと言うかすごくて、ひょっとしたらエルリッヒよりもいいかも…と思ってしまったのは残念なことなのか、それともエルリッヒを見に来たからこれらの作品も見られたと喜ぶべきなのか…

ハンディウィルマン・サプトラ
ハンディウィルマン・サプトラ
ディン・ミッチェル
ディン・ミッチェル
長井朋子
長井朋子

○野生展(21_21デザインサイト)

もう結構歳とったし、最近は風邪から中耳炎になったりで、すっかり元気がなく、これを見ても野生的になれるなんて考えてもいないですが、どんな展覧会だかよくわからないところに惹かれて入ってしまった。
この展覧会の「野生」の基本的な解釈は、南方熊楠の「縁起」という概念に因っている。「縁起」とは西洋近代科学的な固定された因果関係で物事を理解するのではなく、世界の実相を潜在空間に隠されている部分も含めたネットワークでできているとするもの。その「縁起」ネットワークを結合する「脳力」の力で野生を生み出すことが出来ると考えるらしい。この「縁起」の世界では対立関係はなく、全体が部分であり、生が死でもある。
そのようなダイナミックな生命感から、展示には古代の土偶があったり、未開の地のお面があったりする。でも、総じて展示がソフィストケイトされているといってもいいくらい整然としているので、理性を超えた野生的エネルギーは伝わってこない。こんなテーマなら、主題と形式を一致させようとは考えなかったのか。いっそどこか制御できないくらいの展示手段があってもいいのではないかと思ってしまうが…まぁ無理か。でも、どこから生まれるのかわからない色と形で妖しく魅力的な絵本を作っていた田島征三が、植物を使ったインスタレーション作家として華麗な変貌を遂げている姿や、僕らの時代のヒーローの一人である黒田征太郎の、衰えを知らない作品(やっぱり少し衰えたかな)を見られたのだけでも行ってよかった。

野生展
野生展
野生展
野生展(田島征三)
田島征三
野生展(黒田征太郎)
黒田征太郎
野生展
野生展
 
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