カラコロ工房(島根県松江市)での個展
[Neutral space −間(あわい)の領域−]
  (2011.9.19〜9.25)が終わりました。

旧日銀地下大金庫扉から個展会場を覗く
旧日銀地下大金庫扉から個展会場を覗く

地元松江市のカラコロ工房地下ギャラリーで個展をしました。
カラコロ工房は以前日本銀行松江支店があったところで、今はその建物跡を利用した観光スポットになっています(写真1)。
その地下の大金庫があったスペースに2つのギャラリーがあり、その両方を使いました。地下第1ギャラリーでは2002年から制作している【Neutral Space】シリーズの絵画15点、地下第2ギャラリーではインスタレーション作品の展示をしました。
隣り合った2つのそれぞれのスペースで体感的に鑑賞していただき、全体として[Neutral Space −間(あわい)の領域−]とタイトルした私のコンセプトを総合的に受け取ってもらおうと意図した展覧会です。

カラコロ工房
(写真① カラコロ工房)

夏の間ずうーっと床にはいつくばる格好でインスタレーション作品を作っていたためか、搬入・飾り付け3日前にギックリ腰になってしまいました。かなり焦りましたが鍼灸院に行って針を打ちつつ、また学生や卒業生に駆け付けてもらってなんとか無事展示終了(写真②)。ホッとしました・・・・

飾り付け風景
(写真② 飾り付け風景)

と思ったのもつかの間、始まって2日目、展示を直そうとしてまたもやグギッと。1日半寝こみました。
驚いたことに来て下さった方の中にかなりの確率で腰痛持ちがいて、何回となく腰痛談議が盛り上がりました。その中でもっとも経験豊富な方に伺うと、針などの効き方も人それぞれで、やはり静かに寝ているのが一番とか。しかしそう言ってもいられないので、鍼灸の効きはイマイチでも必死になって通いなんとか乗り切りました。

会場入り口
(写真③ 会場入り口)

今回この会場を選んだのはインスタレーションと絵画作品をそれぞれ個別に展示し、そしてその全体で私の作品内容を鑑賞していただけること、またインスタレーション作品の表現意図にマッチした空間が必要だったことがあげられます。
カラコロ工房地下ギャラリーは理想的とは言わないまでも、それぞれの展示を気持ちよくできるであろうと見込んで選択しました。
特に第2ギャラリーは硬質なコンクリートの壁と地下独特の湿り気があり、その雰囲気の中でインスタレーションを展示したいと前から狙ってました。
地下第2ギャラリー、インスタレーションはこんな感じです(写真④ )。

地下第2ギャラリー展示
(写真④ 地下第2ギャラリー展示)

その点で天井が高く、また公共の施設の性格上、広くフラットな島根県立美術館のギャラリーは考えなかったわけですが、この時期に島根県立美術館で近代絵画作品を集めた企画展「ふらんす物語」展を開催すると聞いて「チッ」っとか思ってしまいました。近代絵画は人が入るし、島根近美で個展をやっていればその流れで見てくれる人が多かったのに。
(地下第1ギャラリーはこんな感じです−写真⑤)。

地下第1ギャラリー展示
(写真⑤ 地下第1ギャラリー展示)

ちなみに、「ふらんす物語」展は愛知県美術館の所蔵品を借りてきたもの。実はこの時期はフランス・マルセイユ美術館所蔵品を展示する予定だったのですが、大震災後マルセイユ美術館が貸し出しを拒否。それで急遽変更になったわけです。
このような事態−海外からの展覧会や公演会の中止−は頻繁に起こっています。外国から見れば日本は放射能で汚染された国。しかもそれは、例えば最近公表されている汚染マップなどを見ればわかるように事実です。

インスタレーション作品の表面
(写真⑥ インスタレーション作品の表面−表面の両側がトレーシングペーパー。
中に彩色したビニールが層になって入っています※クリックで拡大します)

会期中、前半の連休は台風の影響で観覧者が少ないかと思っていましたが、意外に知り合いが多く来てくれました。逆に後半の連休はあまりにも天気がよく観光日和だったためか、期待外れの少なさでした。こんな天気のいい日にわざわざ暗い地下には来ないか。
それで一人で受付をしている間に、前から読みたかった村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」を読み終えてしまいました。村上春樹のこの類の教養内在型エッセイ−「やがて哀しき外国語」「The Scrap」「若い読者のための短編小説案内」「意味がなければスイングはない」など−もホント素晴らしい。決して教養を振りかざさずユーモアがあり、そこかしこに人と世界の真実がちりばめられていて、文学としての深い滋養に溢れています。

第1ギャラリー風景
(写真⑦ 第1ギャラリー風景)

ともかく、カラコロは観光客は多いのですが、チラッと見て引き返す人も多い。美術を鑑賞する予定や心構えのない人に私の作品がどう映るか、あるいは現代美術に興味を示すのかというのは、始まる前のちょっとした関心事ではあったのですが、かなり難しいということはすぐにわかりました。
でもその中には、インスタレーション作品の部屋に入り、口を開けたまま声もあげずに、どちらかと言えば嬉しそうな顔で見て回る人や、「どうも気になってもう一度来てしまった。」という美術関係者・愛好家の方も何人かはいました。
こういう方たちには理屈より先に知覚体験としてインパクトがあり、それが精神のある部分まで達したのではないかと密かに思っています。

第2ギャラリー風景
(写真⑧ 第2ギャラリー風景)

ギャラリーに置いたアンケート用紙に「見た後涙が止まりませんでした。」と書いてくれた方がいました。
私は、絵具のしみや流れ、コラージュなどでその場の偶然に任せた画面を作り、その様子に呼応しながら手を加えていき、画面にある飽和した空間ができるまで作品と対話(あるいは葛藤)を繰り返すという手続きで制作しています。
自己を解放し全身が感覚器官となって外界の言葉を受け取り、それをなるべく無作為のうちに画面に還す、そうした外界と自己との交感−自分にとっては自己実現と自己滅却(予知と未知)−がキャンバスを通してある種の融合感覚となって鑑賞者の知覚に伝わることが私の思うところです。
つまり私にとっては絵画とは創造や自己表現ではなく世界(外界と鑑賞者)に繋がるための媒体としてあります。それが自由と解放を得るための方法だと思うのです。
そのようなものに反応して−つまり彼女の精神が解放されて−上記の感想があるならうれしいと思います。

作品に映る人影
(写真⑨ 作品に映る人影)

作家は日々自己省察を繰り返さなければなりませんし、その中で自分と他とを繋ぐ真実の道筋を追い求めなければなりません。しかし、かと言って自分の作品あるいは展覧会については自分で判断・評価することもできません。彼女は彼女のパーソナルな部分が刺激されて涙が出たのかもしれません。

ともかく終わりました。
いろいろ課題もあります。初めてのインスタレーション制作でしたが、絵画的要素がかなり強いこと、照明による演出が曖昧だったこと、第1ギャラリーに設置したインスタレーションが思ったほど面白くなかったことなどなど。
しかし地味ではありましたが、夏の3カ月間の汗の量と2度のギックリ腰の分くらいの成果はあったとは思います。
手伝ってくれた在校生、卒業生のみなさん、来場してくださった皆さんありがとうございました。

第1ギャラリーのインスタレーション作品
(写真⑩ 第1ギャラリーのインスタレーション作品
 「Neutral Space No.21 −森への扉−」※クリックで拡大します)

なお、展覧会の詳しい様子はこのHPの[exhibition]を、「Neutral Space」シリーズの作品については[gallery]をご覧ください。

 
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