ONE MORE CUP OF COFFEE [下]

空と樹木

 僕が「C」を利用した時間は、僕が僕の中へ中へと堀り進むための、その絶対的孤独な時間だった。自分にとって自分こそがこの世の中で一番得体の知れない存在だった。得体の知れない自分と、得体の知れない自分を見ている自分が「C」でのみ静かに出合え、交感できた。「C」の中二階の一番右側の一番後ろの席の窓からは、夕日のあたる樫の木が見えた。その樫の木はか細いながらも、そこには確固たる存在の美しさがあった。僕はその光景を今でも、中原中也の「ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。」(1)という詩の一節とともによく思い出す。
 「C」に通った回数が二百数十回を数えたころ卒業を迎えた。卒業制作はとりあえず種々のがらくた−タイヤ、鉄くず、紙、枝、壊れた機械等−を画面いっぱいに積み上げた作品を二点描いて提出した。評価は悪くなかったが、描写に頼ったその作品に僕は何の満足も感じなかった。
 大学を追い出された僕はどこにも行くあてがなかった。同級の女子学生達が必死に教員採用試験を受けたり会社訪問をしていた夏に、僕はのんきに北海道を旅行していた。今、思い起こそうとしても当時自分が就職に対して何を考えていたのかまったく覚えていないのだ。あきれた話だが、自分が大学を出て何をするのかなど考えてもいなかったようだ。僕がB型人間だからなのか、自分のやりたいことしかできないわがままな人間だった。絵が描けない状態で、他の人生設計など思いもつかなかった。
 しかたなく関東の地方の大学の試験を受け、あと2年だけ社会に出るまでの猶予を作った。虫のいい選択だったがそれでもいい知れぬ敗北感を背負って上野から1時間ほどの地方都市に引っ越した。そこでの2年間は、月曜から金曜まで制作に明けくれ、そのうち火曜と木曜の午後子ども相手の絵画教室を開き、土、日曜は東京に出るという生活だった。講義にはまったく出ずほとんどの単位を落とした。東京では友人の家を泊り歩きながら、以前と同じように映画や展覧会を見、麻雀やデートをし、「C」にたびたび立ち寄った。都会の雑踏になれきってしまっていて、そこに身を置くことで安心した。

歩道

 そんな生活を始めてから半年ほどした頃、「C」がとり壊されるという噂を耳にした。ショックだった。真偽のほどを知りたいと思っていると、新聞の夕刊に「C」とり壊し反対運動の記事が載った。店のオーナーが採算のとれない「C」をつぶし、当時爆発的に流行していたインベーダーハウスにしようとしているという話だった。「C」の愛好者は多かった。常連ばかりだった。その人たちが集まって抗議に行ったという内容だった。それ以上のことはわからなかったが、とにかく「C」はその存在の危機にあることは確かだった。その週末、「C」のドアをおした。いつものように2時間ほど本を読んで過ごし、レジに行ってその当時220円となっていたコーヒー代を払いながら、レジ係の女性に話しかけた。その女性は僕がここに通いはじめたときからずっとレジをやっていて、お互い顔は知っていたが、今まで一度も話をしたことがなかった。やせていて短髪で落ち着いた感じの品の良い中年女性だった。新聞記事のことから話を始め今の様子を聞くと、もうどうにもならないということだった。オーナーは新宿や池袋に持っているパチンコ店やレストランで収益を上げ、「C」は採算度外視でやっていたが、もうそういう訳にもいかなくなった。ゲームセンターになるのは必至だった。話をしているうちに僕はいつのまにか、自分がどれだけ「C」を愛し、自分にとって「C」がどれだけかけがえのない存在であるかを力説していた。強いロ調になっていた。彼女は私に言われても困ると言った。そんなことはわかっていたが、どうにも自制できなくなっていた。言いたいことを吐きだすように言ってしまうととび出すように外に出た。彼女の「ここがとり壊されたら私もやめます。」という声を背中で聞いた。小走りで駅に向かい、池袋駅前の交差点の赤信号で立ち止まったとき、ふいに涙が落ちた。

半年後、「C」はインベーダーハウスになった。古く落ち着きのある建物は全部とり壊され、近代的ビルに変わり周囲に調和した。その後2年ほどでインベーダーゲームが下火になると今度はレストランに変わった。僕は「C」がなくなって以来、池袋でおりることはほとんどなかったが、先日サンシャインビルに行く用事があって、かつて「C」があった辺りを通った。サンシャインシティに続くその辺りは、僕がいた頃とは風景が一新されていた。僕たちがよく通ったコンパや定食屋が姿を消し、ハンバーガースタンドになり、映画館ができ、舗道がカラフルなレンガで敷きつめられ、それが60階建てのビルまで続いていた。あの頃のうらびれた暗さはみじんもなかった。今では流行でしかなくなったミニスカートをはく10代の女の子達の明るい笑い声に包まれながら僕は周囲を見渡したが、レストランもなくなり、どこに「CONCERT HALL」があったのかさえわからなくなっていた。

 リチャードーブローティガンというアメリカの作家の言葉に、「時には人生はカップ一杯のコーヒーがもたらす暖かさの問題」(2)というのがあって、僕はその言葉がとても気に入っている。僕は今でも酸味の強いコーヒーが好きです。

(1) 中原中也「いのちの声」−中原中也詩集「山羊の歌」−より
(2) 村上春樹「象工場のハッピーエンド」より

夕焼け
 
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