高校の先生について
高校時代に描いた作品
お久しぶりです。Topicsサボってました。
ずいぶん前になりますが、「青春の読書・・・・北杜夫氏死去の報に接して・・・・あるいは私は何からできているか?(2011.12.24)」で、ちょっとだけ太宰治のことを書いたのですが、遠藤周作同様、太宰は私にとって、私の性格あるいは資質のようなものを自覚させてくれた重要な作家です。
今回は高校時代の太宰の思い出から、その頃の先生方のことを書いてみたいと思います。
高校2年の3学期、現代国語の先生は教科書を使わず、私たちに太宰治の処女小説集「晩年」の文庫本を買わせ、それだけで授業をしました。私は「晩年」で、あの太宰独特のダラダラと切れ目のない文章になぜか引き込まれていきました。そしてさらに自分で「斜陽」や「人間失格」などを読み、奥野健男氏の評論を読んでみて、自分がなぜこんなに太宰に惹かれるのか納得がいきました。太宰ほど自分の弱さに目をそむけず、みっともない自分を露悪的に表わした作家はいないと思いました。そのように自分を見つめる態度は共感すべきものであり、またそれは人間としてとても「強い」と思えました。太宰が弱い人間だという一般的な見解は私にとっては太宰の表向きのポーズにしか過ぎないと思えました。
3学期の現国の期末試験問題は「太宰について思うところを記せ」という一問だけでした。私は「太宰の強さ」について書いたところ、ものすごくよい評価を貰いました。私が驚いたのは、太宰を強いと論じたのが自分一人だけだったことです。自分としてはとても自然に普通の感想を書いたのに、人と違う個性が現れたことに対して、そしてそれが評価されたことに対してとても不思議で面白いことに思えました。
その現代国語のF先生は、事あるごとに「野坂昭如はノーベル賞を取る」と言い続けていました。当時「蛍の墓」で直木賞を受賞してはいたものの、破天荒な行動でかなりのヒンシュクを買っていた野坂の才能への、あの思いこみはどこから出来てきたのか。印象深い先生でした。
そう言えば2年時の世界史のS先生も教科書をまともに教えてくれませんでした。18世紀のイギリス産業革命とそれに続くフランス革命から授業を始め、ベトナム戦争で1年が終わりました。近代からの人類の歴史について徹底的に詳しく授業をした替わりに、それ以前の歴史については何もしませんでした。「教科書の前半部分は自分で勉強するように」と。私はバカなことに、人間を知るには世界の歴史を知らなければならないとの思い込みから、半分しかやっていない世界史を大学受検の科目に選んでしまいました。したがって教科書の前半部分を独学で勉強し入試に臨みました。今考えると無謀なことをしたなと思いますが、時間と空間が交差してダイナミックに動く世界史の勉強は面白いものでした。
3年時の数学のM先生は自分で授業を行わず、生徒に練習問題を順番に当てておいて、その解答を板書させ、またその説明も生徒本人にさせて進めるという授業でした。私はその頃美術こそが世界の真理をつきとめられるものだと思い込んでいて、また国語と英語は好きで興味を持ってやっていましたが、数学はそれとは隔たったつまらないものだと断じていて、全然勉強をしていませんでした。ですのでその数学の解答の順番が回ってくるのが恐怖でした。なにしろ先生の代わりに説明をしなければならず、ちょっといい加減なことを言うと、教室の一番後ろの席に座っている先生がどなってやり直しをさせるので怖いこと怖いこと。毎回友達に聞きまくり冷や汗ものでしのぎました。
古典のS先生はお坊さんで、坊主頭の上太っていてお坊さんらしいお坊さんでしたが、顔面にも肉がついていたためか滑舌が悪く、授業でしゃべっていることがごにょごにょと良く聞き取れないのです。何を言っているのかまったくわからないので、みな聞くのは諦めていて、勝手なことをやっていました。その授業が3時間目の場合は早弁(弁当を昼前に食べる)をし、だいたいは本を読んだり他の勉強をしていました。そういう時は意外と勉強が進むものです。
倫理社会のA先生の授業は性教育でした。女性性器の大きく子細なイラストをもとに説明したり(うちの高校は男子高です)、コンドームを膨らませて飛ばしたり、かなり実践的でホンキな授業でした。この時期に性について正確な知識をつけさせることへの使命感のようなものがA先生にはあり、このようにかなり具体的であけすけな性教育で、それを受けるこっちの方が戸惑いましたが、ホント大切なことを良く教えてくれたと思います。先生の授業は前の半年は性教育で後の半年はキリスト教についてでした。悪魔が存在することについていくつもの根拠をあげ説明していました。
B.A先生の体育の1年最初の授業はいきなり空中回転でした。手をつかずに空中で回転する、ジャニーズがよくやっているあれです。それもマットではなく外の砂場でやったので怖かったですね。でも怖がるとできなくて、この競技の成否はいかに勇気をもって足を踏み出し回るかにかかっているのです。やってみると意外にできるものだということを学びました。
冬にはラグビーをやりました。ラグビーはルールがユニーク。ボールは前に投げられないし、腰から上の位置で投げてもいけない。試合では私はフルバックというポジションを守りました。文字通り一番後ろ。しかし一旦ボールを持ったら一目散に前に走らなければなりません。なぜなら私より前のプレーヤーは、私が抜いてその前に行くまでプレーしてはいけないのです。もちろんボールを前に投げてはいけない。キックするのはいいのですが、そのボールのところまで私が行かないと他のプレーヤーはやはり動いてはいけない。何という哲学的なスポーツ。
ラグビーでは点が入るのは「ゴール」ではなく「トライ」、終了は「ゲームセット」ではなく「ノーサイド」と言いますね。ふ–む、深いです。
そう言えばそれらの先生方がお休みして自習になることを、私たちの高校では「カクト」と言っていました。四角の中にカタカナの「ト」と書いて表わすからです。「図書館自習」の意味です。自習があるとそのカクトが毎朝職員室前の黒板に記入され、週番がそれをクラスに伝えます。週番の腕の見せ所は先生方と交渉して授業時間を替えてもらい、そのカクトを6時間目に持っていくことです。何しろ終礼(帰りのホームルーム)も掃除も(ついでに制服も)ない高校でしたから、そうすると5時間で帰れるのです。2つカクトがあったりしたら午前中で帰れる。皆大喜びしました。全く自由な学校です。
当時はホントのんびりしていて受験勉強は浪人してからやればいい的な感じで、先生も好き勝手なことを教えていました。私も授業中はよく眠っていて、放課後に美術室で石膏デッサンをやるために高校に行っていたようなものでした。あれから40年。私の青春を彩ってくれたユニークな先生方は、風の便りでは多くがもう亡くなっています。