森アーツセンター「バスキア」展 2019.9.21(土)~ 11.17(日)新着

現代美術の文脈からは外されがちなバスキアだけど、そんなこととは関係なく昔から好きだったなぁ。バスキアの絵は何かホッとするというか、生身の人間そのもののような親近感がある。今回の展覧会は点数も多く、結構見ごたえがあった。
そういえば、ジュリアン・シュナーベルの「バスキア」(1996)もよかった。デヴィッド・ボウイがウォーホルをやっている。ジョン・ケイルの「ハレルヤ」にもしびれた。

バスキア
バスキア
バスキア
バスキア

ボルタンスキー展ほか

今回も掛け持ち出張の合間を縫っていくつかの展覧会を見ました。

■クリスチャン・ボルタンスキー展(国立国際美術館)

照明は消され、その所々で裸電球が光りまた明滅している会場に、心臓音、風鈴の音、叫び声(のようなもの。海に向けた収音機に集まるクジラの声?)が断続的に聞こえる。その中にある47ものインスタレーション作品を巡る。1969年からのボルタンスキーのスタイルをほぼ網羅した記念碑的展覧会だ。作品同士をつなげて見せたり、部屋を区切り独自の空間で見せたりしてあり、光、音、映像等とともに巡ることの臨場感も楽しめる。
生と死(今回は「来世」まである)、記憶、匿名性という根源的なテーマをこれだけ多くのスタイルで、そのどれもが重量感と密度を持って迫ってくる展示は見ごたえがあった。今までの経験で、ウームこれはどうかな?と思っていたものもいくつかあったが-例えば骸骨の影絵や海岸の鈴の音-今回は軽いほうのヴァリエーションとして、振れ幅のうちかなと思った。
しかしやはり無名の人々、時にはボルタンスキー自身も無名の一人として扱った作品に真の内容があるかな。心臓音や新聞の切り抜き、ピンボケの顔写真などのほかに、ボルタンスキーが今まで生きてきた時間を秒数としてカウントしている赤いネオン管の作品。その数字は、彼の死とともに止まる。壁の隙間からの覗いた部屋に置かれている多くの電球。それは毎日2個ずつ消えていく。等々。
それにしても来場者の半分以上が若い女性で、越後妻有や瀬戸内の芸術祭の影響か、かれは人気あるんだな。

ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展

■「霞はじめてたなびく」(佐藤雅晴、西村有、吉開菜央)
トーキョーアーツアンドスペース本郷

(個人的にですが、)佐藤雅晴さんの追悼のためにどうしても行かなくてはいけないと思っていた。佐藤さんががん闘病中で昨年余命宣言されていたことは、トーキョーアーツアンドスペース本郷のHPで彼自身が告白していて知っていたが、先日「六本木クロッシング」展の佐藤さんの「Calling」をFBにポストしたのは、作品に純粋に共鳴したからだ。逝去されたのはつい先日知った。
3階建てのギャラリーは1階ずつスペースが作家に与えられていて、1階が佐藤さん。《福島尾行》は震災後の福島の日常を淡々とまたゆっくりと描いている。(スクリーンの前のピアノが無人のまま低い音楽を奏でている)映像は所々アニメーション化されていて、季節の移ろいやその場の空気が身体的感覚を通してしみじみと浮かび上がってくる。もう1点《雪やコーヒー》はモノクロームアニメーションで、コーヒーに角砂糖を入れる瞬間がスローモーションで繰り返される。角砂糖にコーヒーが滲みこむ。何でもないがいつくしむべき人生がゆっくりと流れる。

佐藤雅晴
佐藤雅晴
佐藤雅晴

2階は吉開菜央さんの映像とテキストのインスタレーション。「石の話」や「金魚の話」など、はじめも終わりもない、目的も大したオチもない、ただたまたま経験したことを綴ったテキストが、自転車に乗る映像とともに並んでいる。生身の自分が風を切る身体感覚。その場でたまたますれ違ったものや経験したこと(金魚や石)。それは意味が発生する前の無垢でむき出しの世界だ。(余談ですが、吉開さんはあの米津玄師の「Lemon」のミュージックビデで踊っている女性だそうだ)

吉開菜央
吉開菜央
吉開菜央

3階は西村有さんの絵画。見た瞬間、「昨日VOCAで見た作品だ」と思った。その時もすごくいいなぁと思った。(VOCA他いくつかの展覧会レポートは後日HPのtopicsにアップしたいと思ってます)その場で見た景色ではなく、いつかどこかで見た記憶の彼方から染み出てきたような風景。直接描いていない。何が見えるのかわからないところからたどり着いたような風景。意識の底にある世界像。

西村有
西村有
西村有

この展覧会を見て言えることは、3人とも、何があっても何がなくても人生はいつくしむべきものだということ。そのやさしさにうっとりしてしまう。
佐藤雅晴さんのご冥福をお祈りいたします。

六本木クロッシング2019展:つないでみる
2019.2.9(土)~ 5.26(日)(森美術館)

いつもながら、出張ついでの美術館巡り。
今週は面白い展覧会がいくつもあり、限られた時間でどれを見るか迷ったのですが、結局「六本木クロッシング」に。
この手の実験的な大規模現代美術展は、私の場合だいたい半分くらいは「うむ?」と首を傾げ、そのうちのいくつかは全く分からない、ということが多いのですが、今回の六本木クロッシングはどの作品も、表現すべき対象とその美術的アプローチや手法が確かで、その内実が素直に入ってきて、見ていてこちらも充実した時間が過ごせました。
今回の六本木クロッシングは、「現代社会が、政治や経済の問題、宗教や世界観の違い、突然の災害などで様々な悲劇に満ちている」ことを共通の認識として、それら様々な「分断」の悲劇に美術的手法を用いて立ち向かっている作品(25組、60点)が集められたということです。
また今回、その「現代の困難を乗り越える最も確かな方法として、『つながり』」をテーマにしています。美術に限らず「つながり」は意味を生成する根本的なものだと思いますが、今回の展示では「テクノロジー」「社会観察」「異質なもの」による「つながり」を、美術的な方法によって表現したものになっています。
いっぱい作品がありましたが、その中で私の好きな2点を紹介します。
まずは、佐藤雅春の《Calling(ドイツ編、日本編)》。映像作品で、どれも人がいない場面がいくつか出てきます。例えば誰もいないドイツの朝の食卓、放課後の職員室、住宅地を走る電車、桜の舞い散る公園など。そこにそれぞれ携帯電話、iPad、公衆電話などが置かれており、それらがしばらく鳴り続けて止みます。それだけですが、呼んでも届かない思いは抑圧の塊のようにも思え、それが寂しく、悲しく響いてきます。
続いて、万代洋輔の《蓋の穴》。万代の一連の創作活動の結果を記録した写真の作品ですが、その活動とは、夜中に車で不法投棄の現場に行き、落ちている廃棄物を集めて、別の場所で組み立てて、明るくなったら撮影するという、彼自身によって決められた手順にそって制作するものです。なんとも無駄で無意味な行為ですが、それをやらざるを得ない人間の習性というか、儀式のような神聖さを感じました。
他の作品もみな中身が濃かったです。

飯川雄大
飯川雄大
土井樹+小川浩平+池上高志+石黒博×ジュスティーヌ・エマール
土井樹+小川浩平+池上高志+石黒博×ジュスティーヌ・エマール
青野文昭
青野文昭
林千歩
林千歩
目
アンリアレイジ
アンリアレイジ
竹川宣彰
竹川宣彰
佐藤雅晴
佐藤雅晴
佐藤雅晴
佐藤雅晴
万代洋輔
万代洋輔
万代洋輔
万代洋輔
杉戸洋
杉戸洋
ヒスロム
ヒスロム
米谷健+ジュリア(MAMコレクション)
米谷健+ジュリア(MAMコレクション)

「空間/経験 そこで何が起こっているか」展(鳥取県立博物館)

「空間/経験 そこで何が起こっているか」展(鳥取県立博物館)に行って来ました。
当館が昨年より始めた「ミュージアムとの創造的な対話」シリーズの第2弾。「空間」とそこでの「経験」の在り方に着目した現代美術の展覧会です。
小山田徹、田口行弘、梅田哲也3氏のインスタレーション作品の展示でしたが、その感想を少し。

小山田は「実測図」と「洞窟と測量」と題したインスタレーション。「実測図」では考古学的な実測制作の形式を、日常品や岩などにも応用した一種の思弁的ドローイング作品。「洞窟と測量」は鍾乳洞を測量し新たな地図を作り出すもの。写経のような、または禅的な修行のようなものを感じた。小山田の生き方そのもの-無に近づく精神性を美術の行為として表したものか。ばかばかしいがとても清らか。つい先日、森美術館での「クロニクル京都1990s―ダイアモンズ・アー・フォーエバー、アートスケープ、そして私は誰かと踊る」展で小山田の所属するダムタイプの活動を改めて概観したが、全く勝手になのだが、古橋悌二を失った後の小山田の心境を思わざるを得なかった。
田口行弘は鳥取砂丘の砂を使ったアニメーションと、その砂を使った砂場で鑑賞者が自ら何らかの跡をつけて制作するインストラクション作品。アニメーションがすばらしく楽しい。これも、つい先日タカ・イシイギャラリーで観た石田尚志のドローイングアニメーション同様、なんともユーモラスで、それこそ「空間」を砂とともに生き生きと「経験」することが出来る。アニメーションというのはこんなにも有効な表現手段なのか。
梅田哲也の作品は、様々な器具を電気的につなげて、動き、光、音、熱などを作り出す装置。冷たく無機的な、また無意味な装置が何か生きているように語りかけてくる。じっとその動きを見つめる。

とても面白く鑑賞した。ただパンフや会場に何一つ解説がないのが気になった。そうでなくてもとっつきにくい現代美術を、何の説明もなく見せられても一般的には何が何だか分からない。せっかく意欲的な展覧会なのに残念。それにしても地方の博物館でこのような展示ができるのは素晴らしい。どこかの美術館も少し考えてもらえないか。

小山田徹作品
田口行弘作品
田口行弘作品
田口行弘作品
梅田哲也作品
梅田哲也作品
梅田哲也作品

東京美術館・ギャラリー巡り(2018.11.9-11.12)

先週から今週初めにかけて見た展覧会から。

■「カタストロフと美術の力」(森美術館)

大惨事をテーマにした作品と相対しても、なかなか素直に受け止められない感じもある。自分は大した災害にも会ってなく、のほほんと毎日生きているという後ろめたさもあるし、美術家としてお前はどうするのかとかも突き付けられて、ずっと戸惑いながら会場を歩くことになる。惨劇の認識と美術作品としての成立はすぐに結びつく訳ではないけど、本展は加藤翼の、被災した灯台を模した建造物を引っ張り起こすプロジェクトや、宮島達男のLEDライトによる鎮魂プロジェクトなど、素直に被災者に気持ちを寄り添うことが出来るものが多かった。特に、オノ・ヨーコの青と白のチョークで自分の思いを書く作品は、無宗教の私が祈りの気持ちになった。

「カタストロフと美術の力」出品作
「カタストロフと美術の力」出品作
「カタストロフと美術の力」出品作
「カタストロフと美術の力」出品作
「カタストロフと美術の力」出品作

■「潜像の語り手」さわひらき(KAAT神奈川芸術劇場)

洗面台の中の海で泳ぐ本物の馬のような木馬とか、砂漠のようなカーペットのずっと遠くで歩くラクダだとか。幻視というか白昼夢というか。一人部屋で午睡から覚めた時のなんとも満ち足りたような懐かしいような寂しいような気持ちにさせられる映像作品。さわの映像からはいつも、自分自身の極私的な時間や空間が深く濃密に思い返される。孤独だけど何とも甘い。

さわひらき作品
さわひらき作品
さわひらき作品

■「僕らはもっと繊細だった」Lee Kit リー・キット(原美術館)

これも映像作品。映像と言ってもほとんど光だけくらいの些細さ。遮光幕に映った木漏れ日の光だけみたいな。そこにちょっとだけセリフのような言葉が入る。その淡くてミニマルな雰囲気から、その場にいる私の感情が自発的に生み出されるのを誘う作品?

リー・キット作品
リー・キット作品

■「樹々あそぶ庭々」浅見貴子+川口市立芝樋ノ爪小学校5年生29人(川口市立アートギャラリー・アトリア)

墨を使って樹々を描く画家の浅見貴子の作品と、彼女が河口の小学校で行った「アーティスト・イン・スクール」授業「校庭の樹-墨の転々で描こう」の成果発表展。墨の持つ滲み、濃淡、強弱、太細等を使って児童が生き生きと点々や線を引いて樹々を描いていて気持ちがいい。
類型的な作品が一つもないのは、浅見が独断的な完成像を作らず、生徒の発想と感性を引き出しているからだと思う。

「樹々あそぶ庭々」作品
「樹々あそぶ庭々」作品
「樹々あそぶ庭々」作品

■「絵と窓の間」石田尚志(タカ・イシイギャラリー)

ドローイング・アニメーションによるインスタレーション。文句なく面白い。無機的な空間が光と線の動きで生きているように見える。見ていて飽きない。

石田尚志作品

■「8,or Hachi」リチャード・タトル(小山登美夫ギャラリー)

現在77歳の老人の作品とは思えない瑞々しさ。何だろうこれは。普段見慣れている日常品がそのままあるのに、何かわからないけど確かに生き生きとした新しい世界を現出させている。しかもユーモアたっぷりに。元々はポストミニマリズムの大作家らしいが、まったくすごいわ。

リチャード・タトル作品
リチャード・タトル作品

国立国際美術館の開館40周年記念展「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」
2018年1月21日(日)―5月6日(日)

大阪の国立国際美術館が、今年で開館40年を迎えるという。

1977年の開設から2004年までは万博公園内の民族博物館の隣にあった。万博記念公園駅でモノレールを降り、遊園地を右手に見て、歩道橋を渡り、万博公園に入って、太陽の塔の脇を通り抜けたところだ。ちょっと遠かったけど、公園内を歩くのも楽しかった。
2004年に一等地の中之島に移転し、地下型美術館として再開した。ミロの陶板壁画とカルダーのモビールはそのまま入口階に飾られている。開館記念展の大規模な「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展に象徴されるように、移転後は、より現代美術の様相をヴィヴィッドに紹介する美術館として、独自の存在感を放っていると思う。
近くにフェスティバルホールができ、また平成33年にはすぐ隣に新美術館(近・現代美術)ができるそうで、あの辺りはますます楽しみなスポットになってくる。

その国立国際美術館の開館40周年記念展として、「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」が先週から始まった。先に、先日観てきた感想から言うと、正直あまり面白くなかったかな。展示の半分は1960年代からの収蔵品で、半分は招待作家の作品。よくある記念展のように、大物アーティストの代表作品を総花的に、というのを避けたかったのかもしれないが、かなりレアで地味な感じだった。塩田小春やアブラモビッチが昔はこんな作品を!的な、蔵出し的な感じ。せっかくの大規模展なので、もうちょっと楽しませてくれてもいいのに、とミーハーな私は思ってしまった(「個人の感想」です)。たまたま関川航平のパフォーマンスが見られたが、それはとても良かった。今回パフォーマンスとビデオ作品が多く、パフォーマンス(上演時間に注意)や長いビデオ作品をゆっくり見るというのが良いかもしれないです。

で、これからが本題ですが、地下3階の会場入り口から入って、ラウシェンバーグ作品の次に、ドイツの女流インスタレーション作家、カリン・ザンダーの《見せる:国立国際美術館のコレクションを巡るオーディオ・ツアー》という作品がある。そこに行くと、広い壁面には何も飾られておらず、鑑賞者は皆ヘッドフォンをして壁の前でうろうろしている、というなんとも不思議な光景に出会う。壁をよく見ると小さく作家名と番号が貼られていて、その番号をヘッドフォンの付いた音声ガイド機器に入れると音声が流れ、皆それを聞いているのだ。つまり、その音声は、壁に飾られるはずの作品を何らかの《音》で表したもので、鑑賞者は作品を見るのではなく、聞くのである。

実は、その中に私の作品もあるのです。昨年10月にザンダーから音声による作品の提供を文書で依頼された。そこには「あなたの作品を音声に置き換えて、それを『見える』ようにして下さい。提供いただくのは、何かの音でも、何かについての説明でも、何かを読んでいただいても、あるいは音楽でも構いません。聞くことができれば何でも結構です。」とあった。私は、自分の身の周りにあるもの-日常的な具体物-を使って音を鳴らし(空気を振動させ)、聞いてみると何の音かよくわからない、「Neutral Space」と題した音の作品を作りました。もし機会があったら004番を聞いてみて下さい。2分程度です。

人の作品の一部になるというこの体験は、私にとっては貴重な体験だったし、こう言ってよければ、とても幸福な体験だった。アーティストはいつも自分の作品を生み出すことばかり考えざるを得ない、いわば因果な宿命にあるので、それを人のために提供するというのは(もちろんコンセプトに共感・賛同できるからだが)、なんとすがすがしく、喜びにあふれたものなのか。創作以外でも、こんな気持ちで生きられればと思う。

この「音の作品」には、141人のアーティストが参加しているのだが、驚いたことに、その中には海外からはギリックやライアン・ガンダー、ティルマンス、李禹煥、etc.、日本でも加藤泉や、束芋、森村康昌などのビッグアーティストが名前を連ねている。これは私の想像だが、彼らも嬉々としてこのプロジェクトに参加したのではないか。彼らほどの大物でも、ザンダーの作品の一部になることに喜びを感じているのではないか。こう考えるととても気持ちがホンワカするのである。

ラウシェンバーグ
ラウシェンバーグ
大竹伸郎
大竹伸郎
大竹伸郎
大竹伸郎

エルリッヒ展・野生展(2017.12.12)

○レアンドロ・エルリッヒ展 (森美術館)

エルリッヒ展は一人では行かないほうがいいよ、と友人から聞いていたけど、その通りだった。確かに面白いし、インスタ映えする写真が撮れるけど、一人では作品に入り込んだ時に、自分で自分が撮れない。キャッキャ言って写真を撮り合っているグループを見ると「チッ、うるさい」とか思ってしまう。
エルリッヒは基本、鏡と空間と映像を使い錯覚を起こし、虚実をないまぜにして、人間が「こうであるはずだ」と思う既成概念を壊してしまう。人の感覚や行動がいかに慣用に囚われているかを暴く批評性があるから美術になっている、とか思っていたら、最後の「建物」は理屈抜きで面白い。単純な仕掛けなのになんでこんなに楽しいのかってくらい。これは誰かと来ないとインスタ映え写真が撮れないよ。

エルリッヒ展
エルリッヒ展
エルリッヒ展
エルリッヒ展
エルリッヒ展

それから、こんなこと書いていいのかわからないので、カッコに入れて書くけど、エルリッヒ展を出て同じ階で開催していたMAMコレクションとプロジェクト展のハンディウィルマン・サプトラやディン・ミッチェルの作品、はたまたミュージアムショップでやっていた長井朋子の作品が面白いと言うかすごくて、ひょっとしたらエルリッヒよりもいいかも…と思ってしまったのは残念なことなのか、それともエルリッヒを見に来たからこれらの作品も見られたと喜ぶべきなのか…

ハンディウィルマン・サプトラ
ハンディウィルマン・サプトラ
ディン・ミッチェル
ディン・ミッチェル
長井朋子
長井朋子

○野生展(21_21デザインサイト)

もう結構歳とったし、最近は風邪から中耳炎になったりで、すっかり元気がなく、これを見ても野生的になれるなんて考えてもいないですが、どんな展覧会だかよくわからないところに惹かれて入ってしまった。
この展覧会の「野生」の基本的な解釈は、南方熊楠の「縁起」という概念に因っている。「縁起」とは西洋近代科学的な固定された因果関係で物事を理解するのではなく、世界の実相を潜在空間に隠されている部分も含めたネットワークでできているとするもの。その「縁起」ネットワークを結合する「脳力」の力で野生を生み出すことが出来ると考えるらしい。この「縁起」の世界では対立関係はなく、全体が部分であり、生が死でもある。
そのようなダイナミックな生命感から、展示には古代の土偶があったり、未開の地のお面があったりする。でも、総じて展示がソフィストケイトされているといってもいいくらい整然としているので、理性を超えた野生的エネルギーは伝わってこない。こんなテーマなら、主題と形式を一致させようとは考えなかったのか。いっそどこか制御できないくらいの展示手段があってもいいのではないかと思ってしまうが…まぁ無理か。でも、どこから生まれるのかわからない色と形で妖しく魅力的な絵本を作っていた田島征三が、植物を使ったインスタレーション作家として華麗な変貌を遂げている姿や、僕らの時代のヒーローの一人である黒田征太郎の、衰えを知らない作品(やっぱり少し衰えたかな)を見られたのだけでも行ってよかった。

野生展
野生展
野生展
野生展(田島征三)
田島征三
野生展(黒田征太郎)
黒田征太郎
野生展
野生展

東京美術館ギャラリー巡り 2017.11.10

The ドラえもん展(森アーツセンターギャラリー)

あまりドラえもんに愛着があるわけでもなく、今さらとも思ったけど、見てみたらかなり面白かった。個々の作家のドラえもんの作品化が多様で面白く意外と見ごたえがある。
村上隆や奈良美智はお馴染みだけど、彼らのようにキャラクターを自分のスタイルで正面から作品にするのではなく、さりげなく扱っている梅佳代や後藤映則、カワクボリョウタにググッとくる(残念ながらこれらは撮影禁止)。

ドラえもん
ドラえもん
ドラえもん
ドラえもん
ドラえもん
ドラえもん
ドラえもん

他に六本木界隈のギャラリー。


パオラ・ピヴィ(ギャラリー・ペロタン)

パオラ・ピヴィ
パオラ・ピヴィ

アンドレアス・スロミンスキー(ワコウ・ワークス・オブ・アート)

アンドレアス・スロミンスキー
アンドレアス・スロミンスキー

千葉正也(シューゴアーツ)

千葉正也
千葉正也

ソピアップ・ピッチ(小山登美夫ギャラリー)

ソピアップ・ピッチ
ソピアップ・ピッチ

榎倉康二(タカ・イシイ・ギャラリー)

榎倉康二
榎倉康二

五者五様。それぞれコンセプトもスタイルも全く違う・・・のに、みんな面白い。回るの楽しい。

大阪・京都・長野 美術紀行(2017.5.1-5.7)

ここ数年GWは長野方面にドライブに行っています。今年も1週間で約2000キロ走ってきました。
途中大阪でまず休憩。国立国際美術館の①ライアン・ガンダー。京都に回って西本願寺と東寺。長野では3日間を小布施や佐久、善光寺と八ヶ岳まで足を延ばして②キース・へリング美術館に。
帰りは大津の歴史博物館で③「2019CAF.Nびわこ」展のレセプションに参加させていただき、翌日、④大山崎山荘によって帰ってきました。

ライアン・ガンダー
ライアン・ガンダー
ライアン・ガンダー

①ライアン・ガンダーは最近ビエンナーレなどでよく見かけます。コンセプチュアルアートの旗手ですが、彼の作品もコンセプチュアルであることの宿命として、ただ見るだけでは(いわゆる感覚を通してでは)理解に至らなく、何かの概念と結びつくことで初めて意味ある世界像が脳みそに広がるので、なかなか難しいです。例えば、鏡面に絵具が置かれていて、一見抽象絵画に見える作品がずらっと並んでいる作品がありました。どう贔屓目に見ても抽象絵画としたら出来がいいとは思えませんが、これがそれぞれの制作者が色を混ぜたパレットだと知った瞬間、まだ見ぬ(見えぬ)膨大な数の作品が頭の中でボワッと渦を巻くように浮かんできました。それはそれは豊饒なイメージの経験でした。

西本願寺
西本願寺
東寺
長野
長野
善光寺
食事

②八ヶ岳の優雅な避暑地に「中村キース・へリング美術館」があって、私は星野リゾナーレではなくそこを目指しました(本当です)。いやぁ素晴らしかった。こんなところにこんな素敵な美術館があったとは。建築と作品が一体となって私たちを楽しませてくれます。多彩な空間と直描きの作品が呼応して、そこを歩いて進む間ワクワクが止まりません。おなじみのアイコンに会えるのも楽しいですが、エイズを診断された後制作された、詩人ウィリアム・S・バロウズとの共作「アポカリプス(黙示録)」は線が震え表現主義的な作品になっています。また、死を宣告された時の作品「無題(トライアングル)1988年8月15日」には地の底から何かが襲ってくるような不気味さがあります。今まで知っていたのとは全く違うキース・へリングを見ました。

中村キース・へリング美術館
中村キース・へリング美術館
中村キース・へリング美術館

③「2019CAF.Nびわこ」展は私も参加しています。主に関西圏の作家が一人ひとり自分の打ち立てた世界を地道にしかも確実に表現していて、美術の芸術的意義に誠実な向き合える展覧会だと思います。

「2019CAF.Nびわこ」展
「2019CAF.Nびわこ」展
「2019CAF.Nびわこ」展

④いつも名神を走っていて、いつか行ってみたいと思っていたのが大山崎山荘です。今回「漱石と京都」という企画展示でしたが、生誕150年を記念してか最近いくつか漱石関連のテレビドラマを見ていたので興味深かったです。手紙で見た直筆でのいかにも神経質で頑固そうな字は面白かった。
加賀という実業家が設計したこの山荘へのこだわりには、もともとあまり興味がなかった私も最後はすごいと感服しました。

大山崎山荘

最近安藤忠雄を悪く言う人が多くなったような気がするのだけど(気がするだけですが)、やっぱいいんじゃないかなと私は思う。いろいろ批判はあっても批判されるだけの大きな内容を備えているので、基本私は尊敬しています。

安藤忠雄

庭園。バリー・フラナガンは結構あちこちで見ます。

バリー・フラナガン

美術館&ギャラリー巡り 2016.11.11-11.14 ②

かつて清澄白河の倉庫で現代美術ギャラリーとして名をはせていた、小山登美夫ギャラリー、シューゴアーツ、タカ・イシイギャラリーが、今年10月六本木のcomplex665に、再度集合しオープンした。

当時、これらのギャラリーは交通的には不便な清澄白河に、外観からはわからないが、中に入ると広いスペースに大きな作品が並ぶというアメリカ型ギャラリーを作り、狭ぜました銀座型ギャラリーの常識を一転させたものだった。今回六本木に集まったことで、一足早く六本木にオープンしたオオタファインアーツ、ワコウ・アートスペースらや森美術館などとともに、ますます六本木を現代美術のメッカにしている。
今回はそのオープニング展など。

「樫木知子展」オオタファインアーツ 2016.10.21-11.19

虚弱体質系現代具象絵画の系譜かと。こういううすら寒い絵にはついていけない。

樫木知子展
樫木知子展

「小林正人展」シューゴアーツ 2016.10.21-12.4

入って正面の三角の作品。木枠やキャンバスと格闘しながら作品を文字通り立ち上げる作品は、絵画の可能性を引き出した小林らしい。最近それに馬や少女の像が出てきているけど、あれは何なのか?正直ガックリくるのだけど。他の現代絵画作家でも、例えば赤塚祐二の作品に作り物めいたパースの空間が出てきたり、丸山直文のステイニングに大きな人の顔が出てきたときはショックだったし、もっと前にはジャスパー・ジョンズの作品に壺や魔女の横顔が出てきたときなどとも似ている感じ。

絵画の革新的表現が時代の要請とあまりにもぴったりで完結しすぎていて、そこからの展開が難しくなったときに、このようなある種嘘くさい、マイナーな表現に入り込むことがあるのだろうか。それとも人の期待を裏切ることに密かな快感でもあるのか。
しかし、これでダメになったと即断することはできず、その後も皆それなりの展開をしていることも事実。よいかどうか私には判断できないけど。

小林正人展
小林正人展

「蜷川実花展」「Light of」小山登美夫ギャラリー2016.10.21-12.3

野外フェスなどの花火の光をとらえた作品。光の鮮やかさとその刹那的な熱気や逆にはかなさなども感じさせる。すごく質の高い良い作品だとはわかるのだけど、いつもなぜか心に響いてこない。

蜷川実花展
蜷川実花展

「Inaugural Exhibition : MOVED」タカ・イシイギャラリー2106.10.21-11.19

ギャラリーアーティスト22名によるグループ展。以前からちょっと気になっていた絵画の法貴信也の作品が変わってすごくよくなっていた。(上の左側の作品)それからクサナギシンペイ(下の左の作品)

Inaugural Exhibition : MOVED
Inaugural Exhibition : MOVED

「リアム・ギリック展」”Stardust Expression”  TARO NATU ギャラリー(神田馬喰町)2016.10.14-11.12

「岡山芸術交流-Development」のアートディレクターをしていて、また前から気にもなっていたギリックを見に馬喰町へ。LED電球とテキストの展示。ライトの光の残像で空間がおかしく見える。よくわからなったけど、すごく頭がよくて意志が強い人だろうなと思った。

リアム・ギリック展
リアム・ギリック展

「トランス/リアル-非実態的美術の可能性 Vol.5 伊藤篤宏・角田俊也」ギャラリーαM 2016.10.29-12.3

αMはTARO NATUのすぐ隣の地下にあるのだけど、どこから入るのかよくわからない。表示もないし、ここに画廊があるとは近所の人も知らない(と思う)。以前から独自の骨太企画を続けてきたギャラリーαM。今回の角田俊也も面白かった。「フィールド録音」と名付けたその作品は、ある風景の前に立ち、そこに流れているであろう環境音、または振動を二人のこめかみにつけた聴診器でひろう。それをギャラリーのヘッドフォンでその場の写真とともに聴くのだけど、聞こえてくる振動(こんな音がしているのか)からはあまりにもその場の気配が生々しく伝わってきて鳥肌が立ちそうだった。

トランス/リアル-非実態的美術の可能性
トランス/リアル-非実態的美術の可能性
 
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