森アーツセンター「バスキア」展 2019.9.21(土)~ 11.17(日)新着

現代美術の文脈からは外されがちなバスキアだけど、そんなこととは関係なく昔から好きだったなぁ。バスキアの絵は何かホッとするというか、生身の人間そのもののような親近感がある。今回の展覧会は点数も多く、結構見ごたえがあった。
そういえば、ジュリアン・シュナーベルの「バスキア」(1996)もよかった。デヴィッド・ボウイがウォーホルをやっている。ジョン・ケイルの「ハレルヤ」にもしびれた。

バスキア
バスキア
バスキア
バスキア

「塩田千春展:魂がふるえる」 森美術館 2019.6.20(木)~ 10.27(日)新着

塩田千春は今まで結構見ているし、今更どうなのかなぁと思いながら友人に誘われるまま見たけどやっぱ、すごかったです。
作品がすごいのは前から知っていたけど、今回は彼女の生身のセンシビリティに触れた気がしました。
塩田の関心は精神(魂)と肉体(身体)、内面と外界の乖離と融合にあるように感じた。その感受性が鋭すぎて、作品としてなんとかしないと自分が崩れてしまう、そんな切羽詰まった怖さまで感じさせます。だから内や外、またその境界となる血液、骨や皮膚、糸、土や窓などをモティーフとして、それを自分の身体を通してどうにか外(他)と繋ぎ合わせられないかと苦闘することが作品になっていると解釈しました。特にドイツ留学中のアブラモビッチやレベッカ・ホーンに師事して模索していた頃のパフォーマンスは、その希求が真っすぐで、無防備で文字通り体当たりで痛々しいほどです。
今まで完璧に出来上がったインスタレーションしか見てなくて、やっぱ天才だなぁとか思うだけだったけど、涙ぐましい格闘の軌跡を見た後の今回の結論としては(すごく当たり前で陳腐な表現になってしまうけど)、天才的な作品とは、身を切る痛みの果てにしか実現できないものだということでした。

塩田千春展
塩田千春展
塩田千春展
塩田千春展
塩田千春展
塩田千春展
塩田千春展
塩田千春展

[堂島リバービエンナーレ2019]2019年7月27日-8月18日 堂島リバーフォーラム新着

[堂島リバービエンナーレ2019]に行って来ました。
サブタイトルが「シネマの芸術学 -東方に導かれて- ジャン・リュック=ゴダール『イメージの本』に誘われて」
ゴダールの最新映画作品『イメージの本』を基に、「私たちに未来を語るのは“アーカイブ”である」「アートとは、現実の反映ではなく、その反映の現実性なのである」と語る彼のコンセプトに沿って、アーティスティック・ディレクターの飯田髙誉がキュレーションしたもの。出品者はゲルハルト・リヒター、トーマス・ルフ、佐藤允、空音央、アルバート・トーレンなど。
ゴダールの「イメージの本」は、ほぼ全編既存の映画作品の断片を引用コラージュした作品。画像が劣化していたり極彩色であったり、くるくる場面が変わったりしてどこか意識の反映的(?)。ゴダールについて無知な私にはほとんどわからなかったけれど、会場配布のハンドアウトと交互に見て何とかついて行った。
リヒターは自作の構想や写真などで構成した「アトラス」。台紙の数が全部で圧巻の809枚。他、佐藤の油彩の他は写真や映像作品。もっとも面白かったのがフィオナ・タンの写真と映像作品。《人々の声 東京》という写真の作品は、東京で暮らす人々が自分たちを撮った写真(結婚式とか、日常風景だとか)を、持ち主から借りて背景情報なしでタンが選んで並べたもの。何ともよかった。写真に写っているのが誰だかわからないので、変な意識の誇張や理論が消えてなくなる。そこには単なる人生のある瞬間だけが素朴に純粋にあって、そこから人生は愛すべきものだということがひしひしと伝わってきた。

堂島リバーフォーラム
堂島リバービエンナーレ2019
堂島リバービエンナーレ2019
堂島リバービエンナーレ2019
堂島リバービエンナーレ2019
堂島リバービエンナーレ2019
堂島リバービエンナーレ2019
堂島リバービエンナーレ2019
堂島リバービエンナーレ2019
堂島リバービエンナーレ2019

京都場 「移ろう民」展 2019年6月8日(土)~6月30日

いつものように大阪出張に1日足して美術館・ギャラリー巡り
「移ろう民」展  京都場  (6/30で終了しました)
メキシコとメキシコの関係する日本人作家9名の展覧会。移民や文化、出自やアイデンティティなどがテーマになっている。
自分に対して無防備なくらい真っすぐで、安易な共感も求めていない。表現に対しても、既定の美術の文脈に乗っからず、真っすぐに突き進む姿がすがすがしい。
個人的には今道子さんの写真を見られたのがうれしかった。1990年NHK教育テレビ(今のEテレ)で放映した「近未来写真術」で今さんの写真に出会い、美術的な写真のすごさに目覚めた。(篠山紀信の進行で、宮本隆司、柴田敏雄、荒木経惟などが出ていた)。今でもすごい。

「移ろう民」展
「移ろう民」展
「移ろう民」展
「移ろう民」展
「移ろう民」展
「移ろう民」展

京都場・中津川浩章個展(2019年4月20日(土)〜5月29日(水))

FBなどを通して作品やその活動(主にアートを通した障がい者支援)をずっと見させていただいている中津川浩章さんの作品本物をようやく見ることが出来た。

中津川さんの作品の生命線が文字通り「線」にあることは疑いようもないが、(それはチョット置いておいて)私には絵具のピグメント感が強いのが前から気になっていた。あのバイオレットブルーは何の顔料を何のメディウムで練っているのか(聞いてないのでわかりませんが)。市販のアクリル絵具かもしれないけど。ほとんど、いや多分まったく水で薄めない絵具を、硬めの筆で(使い込んで穂先がちょうどよく固まった筆か。これも聞いてません)ローキャンバスに押し付けるように描いている。それでマティエールとしてはかさかさしてマット(艶消し)にはなるのだが、顔料の粒子がキラキラ輝いているように見えるのが魅力的だ。

で、その「線」ですが、見た時にいろいろな思いをあふれさせ、強く引き付けられるその線は、その魅惑に抗しがたいという点で官能的だが、それとともに厳粛なものを感じる。多分描いている時は意図から離れ、なるべく無私になることは必要だろうが、それは単なる無意識とは違い、瞬間の決定でもそこには永遠に近い記憶や、描いてないときにした沈思黙考というか、思念の堆積が同時にあるのではないか。それがアクションペインティングなどとは違う画面の質を形成しているように思う。

ともかく引き初め工場の跡地という京都らしい時間が堆積している「場」(京都場)で、中津川さんの思念で充電され、ライトアップされた作品はとてもよく合っていた。

中津川浩章個展
中津川浩章個展
中津川浩章個展
中津川浩章個展
中津川浩章個展
中津川浩章個展
中津川浩章個展
中津川浩章個展

ボルタンスキー展ほか

今回も掛け持ち出張の合間を縫っていくつかの展覧会を見ました。

■クリスチャン・ボルタンスキー展(国立国際美術館)

照明は消され、その所々で裸電球が光りまた明滅している会場に、心臓音、風鈴の音、叫び声(のようなもの。海に向けた収音機に集まるクジラの声?)が断続的に聞こえる。その中にある47ものインスタレーション作品を巡る。1969年からのボルタンスキーのスタイルをほぼ網羅した記念碑的展覧会だ。作品同士をつなげて見せたり、部屋を区切り独自の空間で見せたりしてあり、光、音、映像等とともに巡ることの臨場感も楽しめる。
生と死(今回は「来世」まである)、記憶、匿名性という根源的なテーマをこれだけ多くのスタイルで、そのどれもが重量感と密度を持って迫ってくる展示は見ごたえがあった。今までの経験で、ウームこれはどうかな?と思っていたものもいくつかあったが-例えば骸骨の影絵や海岸の鈴の音-今回は軽いほうのヴァリエーションとして、振れ幅のうちかなと思った。
しかしやはり無名の人々、時にはボルタンスキー自身も無名の一人として扱った作品に真の内容があるかな。心臓音や新聞の切り抜き、ピンボケの顔写真などのほかに、ボルタンスキーが今まで生きてきた時間を秒数としてカウントしている赤いネオン管の作品。その数字は、彼の死とともに止まる。壁の隙間からの覗いた部屋に置かれている多くの電球。それは毎日2個ずつ消えていく。等々。
それにしても来場者の半分以上が若い女性で、越後妻有や瀬戸内の芸術祭の影響か、かれは人気あるんだな。

ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展
ボルタンスキー展

■「霞はじめてたなびく」(佐藤雅晴、西村有、吉開菜央)
トーキョーアーツアンドスペース本郷

(個人的にですが、)佐藤雅晴さんの追悼のためにどうしても行かなくてはいけないと思っていた。佐藤さんががん闘病中で昨年余命宣言されていたことは、トーキョーアーツアンドスペース本郷のHPで彼自身が告白していて知っていたが、先日「六本木クロッシング」展の佐藤さんの「Calling」をFBにポストしたのは、作品に純粋に共鳴したからだ。逝去されたのはつい先日知った。
3階建てのギャラリーは1階ずつスペースが作家に与えられていて、1階が佐藤さん。《福島尾行》は震災後の福島の日常を淡々とまたゆっくりと描いている。(スクリーンの前のピアノが無人のまま低い音楽を奏でている)映像は所々アニメーション化されていて、季節の移ろいやその場の空気が身体的感覚を通してしみじみと浮かび上がってくる。もう1点《雪やコーヒー》はモノクロームアニメーションで、コーヒーに角砂糖を入れる瞬間がスローモーションで繰り返される。角砂糖にコーヒーが滲みこむ。何でもないがいつくしむべき人生がゆっくりと流れる。

佐藤雅晴
佐藤雅晴
佐藤雅晴

2階は吉開菜央さんの映像とテキストのインスタレーション。「石の話」や「金魚の話」など、はじめも終わりもない、目的も大したオチもない、ただたまたま経験したことを綴ったテキストが、自転車に乗る映像とともに並んでいる。生身の自分が風を切る身体感覚。その場でたまたますれ違ったものや経験したこと(金魚や石)。それは意味が発生する前の無垢でむき出しの世界だ。(余談ですが、吉開さんはあの米津玄師の「Lemon」のミュージックビデで踊っている女性だそうだ)

吉開菜央
吉開菜央
吉開菜央

3階は西村有さんの絵画。見た瞬間、「昨日VOCAで見た作品だ」と思った。その時もすごくいいなぁと思った。(VOCA他いくつかの展覧会レポートは後日HPのtopicsにアップしたいと思ってます)その場で見た景色ではなく、いつかどこかで見た記憶の彼方から染み出てきたような風景。直接描いていない。何が見えるのかわからないところからたどり着いたような風景。意識の底にある世界像。

西村有
西村有
西村有

この展覧会を見て言えることは、3人とも、何があっても何がなくても人生はいつくしむべきものだということ。そのやさしさにうっとりしてしまう。
佐藤雅晴さんのご冥福をお祈りいたします。

六本木クロッシング2019展:つないでみる
2019.2.9(土)~ 5.26(日)(森美術館)

いつもながら、出張ついでの美術館巡り。
今週は面白い展覧会がいくつもあり、限られた時間でどれを見るか迷ったのですが、結局「六本木クロッシング」に。
この手の実験的な大規模現代美術展は、私の場合だいたい半分くらいは「うむ?」と首を傾げ、そのうちのいくつかは全く分からない、ということが多いのですが、今回の六本木クロッシングはどの作品も、表現すべき対象とその美術的アプローチや手法が確かで、その内実が素直に入ってきて、見ていてこちらも充実した時間が過ごせました。
今回の六本木クロッシングは、「現代社会が、政治や経済の問題、宗教や世界観の違い、突然の災害などで様々な悲劇に満ちている」ことを共通の認識として、それら様々な「分断」の悲劇に美術的手法を用いて立ち向かっている作品(25組、60点)が集められたということです。
また今回、その「現代の困難を乗り越える最も確かな方法として、『つながり』」をテーマにしています。美術に限らず「つながり」は意味を生成する根本的なものだと思いますが、今回の展示では「テクノロジー」「社会観察」「異質なもの」による「つながり」を、美術的な方法によって表現したものになっています。
いっぱい作品がありましたが、その中で私の好きな2点を紹介します。
まずは、佐藤雅春の《Calling(ドイツ編、日本編)》。映像作品で、どれも人がいない場面がいくつか出てきます。例えば誰もいないドイツの朝の食卓、放課後の職員室、住宅地を走る電車、桜の舞い散る公園など。そこにそれぞれ携帯電話、iPad、公衆電話などが置かれており、それらがしばらく鳴り続けて止みます。それだけですが、呼んでも届かない思いは抑圧の塊のようにも思え、それが寂しく、悲しく響いてきます。
続いて、万代洋輔の《蓋の穴》。万代の一連の創作活動の結果を記録した写真の作品ですが、その活動とは、夜中に車で不法投棄の現場に行き、落ちている廃棄物を集めて、別の場所で組み立てて、明るくなったら撮影するという、彼自身によって決められた手順にそって制作するものです。なんとも無駄で無意味な行為ですが、それをやらざるを得ない人間の習性というか、儀式のような神聖さを感じました。
他の作品もみな中身が濃かったです。

飯川雄大
飯川雄大
土井樹+小川浩平+池上高志+石黒博×ジュスティーヌ・エマール
土井樹+小川浩平+池上高志+石黒博×ジュスティーヌ・エマール
青野文昭
青野文昭
林千歩
林千歩
目
アンリアレイジ
アンリアレイジ
竹川宣彰
竹川宣彰
佐藤雅晴
佐藤雅晴
佐藤雅晴
佐藤雅晴
万代洋輔
万代洋輔
万代洋輔
万代洋輔
杉戸洋
杉戸洋
ヒスロム
ヒスロム
米谷健+ジュリア(MAMコレクション)
米谷健+ジュリア(MAMコレクション)

「空間/経験 そこで何が起こっているか」展(鳥取県立博物館)

「空間/経験 そこで何が起こっているか」展(鳥取県立博物館)に行って来ました。
当館が昨年より始めた「ミュージアムとの創造的な対話」シリーズの第2弾。「空間」とそこでの「経験」の在り方に着目した現代美術の展覧会です。
小山田徹、田口行弘、梅田哲也3氏のインスタレーション作品の展示でしたが、その感想を少し。

小山田は「実測図」と「洞窟と測量」と題したインスタレーション。「実測図」では考古学的な実測制作の形式を、日常品や岩などにも応用した一種の思弁的ドローイング作品。「洞窟と測量」は鍾乳洞を測量し新たな地図を作り出すもの。写経のような、または禅的な修行のようなものを感じた。小山田の生き方そのもの-無に近づく精神性を美術の行為として表したものか。ばかばかしいがとても清らか。つい先日、森美術館での「クロニクル京都1990s―ダイアモンズ・アー・フォーエバー、アートスケープ、そして私は誰かと踊る」展で小山田の所属するダムタイプの活動を改めて概観したが、全く勝手になのだが、古橋悌二を失った後の小山田の心境を思わざるを得なかった。
田口行弘は鳥取砂丘の砂を使ったアニメーションと、その砂を使った砂場で鑑賞者が自ら何らかの跡をつけて制作するインストラクション作品。アニメーションがすばらしく楽しい。これも、つい先日タカ・イシイギャラリーで観た石田尚志のドローイングアニメーション同様、なんともユーモラスで、それこそ「空間」を砂とともに生き生きと「経験」することが出来る。アニメーションというのはこんなにも有効な表現手段なのか。
梅田哲也の作品は、様々な器具を電気的につなげて、動き、光、音、熱などを作り出す装置。冷たく無機的な、また無意味な装置が何か生きているように語りかけてくる。じっとその動きを見つめる。

とても面白く鑑賞した。ただパンフや会場に何一つ解説がないのが気になった。そうでなくてもとっつきにくい現代美術を、何の説明もなく見せられても一般的には何が何だか分からない。せっかく意欲的な展覧会なのに残念。それにしても地方の博物館でこのような展示ができるのは素晴らしい。どこかの美術館も少し考えてもらえないか。

小山田徹作品
田口行弘作品
田口行弘作品
田口行弘作品
梅田哲也作品
梅田哲也作品
梅田哲也作品

東京美術館・ギャラリー巡り(2018.11.9-11.12)

先週から今週初めにかけて見た展覧会から。

■「カタストロフと美術の力」(森美術館)

大惨事をテーマにした作品と相対しても、なかなか素直に受け止められない感じもある。自分は大した災害にも会ってなく、のほほんと毎日生きているという後ろめたさもあるし、美術家としてお前はどうするのかとかも突き付けられて、ずっと戸惑いながら会場を歩くことになる。惨劇の認識と美術作品としての成立はすぐに結びつく訳ではないけど、本展は加藤翼の、被災した灯台を模した建造物を引っ張り起こすプロジェクトや、宮島達男のLEDライトによる鎮魂プロジェクトなど、素直に被災者に気持ちを寄り添うことが出来るものが多かった。特に、オノ・ヨーコの青と白のチョークで自分の思いを書く作品は、無宗教の私が祈りの気持ちになった。

「カタストロフと美術の力」出品作
「カタストロフと美術の力」出品作
「カタストロフと美術の力」出品作
「カタストロフと美術の力」出品作
「カタストロフと美術の力」出品作

■「潜像の語り手」さわひらき(KAAT神奈川芸術劇場)

洗面台の中の海で泳ぐ本物の馬のような木馬とか、砂漠のようなカーペットのずっと遠くで歩くラクダだとか。幻視というか白昼夢というか。一人部屋で午睡から覚めた時のなんとも満ち足りたような懐かしいような寂しいような気持ちにさせられる映像作品。さわの映像からはいつも、自分自身の極私的な時間や空間が深く濃密に思い返される。孤独だけど何とも甘い。

さわひらき作品
さわひらき作品
さわひらき作品

■「僕らはもっと繊細だった」Lee Kit リー・キット(原美術館)

これも映像作品。映像と言ってもほとんど光だけくらいの些細さ。遮光幕に映った木漏れ日の光だけみたいな。そこにちょっとだけセリフのような言葉が入る。その淡くてミニマルな雰囲気から、その場にいる私の感情が自発的に生み出されるのを誘う作品?

リー・キット作品
リー・キット作品

■「樹々あそぶ庭々」浅見貴子+川口市立芝樋ノ爪小学校5年生29人(川口市立アートギャラリー・アトリア)

墨を使って樹々を描く画家の浅見貴子の作品と、彼女が河口の小学校で行った「アーティスト・イン・スクール」授業「校庭の樹-墨の転々で描こう」の成果発表展。墨の持つ滲み、濃淡、強弱、太細等を使って児童が生き生きと点々や線を引いて樹々を描いていて気持ちがいい。
類型的な作品が一つもないのは、浅見が独断的な完成像を作らず、生徒の発想と感性を引き出しているからだと思う。

「樹々あそぶ庭々」作品
「樹々あそぶ庭々」作品
「樹々あそぶ庭々」作品

■「絵と窓の間」石田尚志(タカ・イシイギャラリー)

ドローイング・アニメーションによるインスタレーション。文句なく面白い。無機的な空間が光と線の動きで生きているように見える。見ていて飽きない。

石田尚志作品

■「8,or Hachi」リチャード・タトル(小山登美夫ギャラリー)

現在77歳の老人の作品とは思えない瑞々しさ。何だろうこれは。普段見慣れている日常品がそのままあるのに、何かわからないけど確かに生き生きとした新しい世界を現出させている。しかもユーモアたっぷりに。元々はポストミニマリズムの大作家らしいが、まったくすごいわ。

リチャード・タトル作品
リチャード・タトル作品

アカデミック・カフェ&教科内容学会プロジェクト研究 2018.6.27

日頃の活動の発表をする機会が2つありました。

1つ目は、昨年サヴァティカル研修で行ってきたカッセル・ドクメンタとヴェネティア・ビエンナーレについて、学部のアカデミック・カフェで報告しました。
内容は、
「現代美術って何?-国際芸術祭から見る現代美術」と題して、
国際芸術祭の紹介を通して現代美術作品の様相を伝え、その作品成立の根拠としてのコンセプチュアルな理念や、インスタレーションなどの表現形式についての見方や考え方について発表しました。写真を多く使って、美術が専門でない参加者が、今まで捕えられていた美術の概念から解放され、美術による新しい世界の見方が広がるようにという意図です。
コーヒーを飲みながら、柔らかくでもアカデミックに。

2つ目は、名古屋で行われた教科内容学会でのプロジェクト研究の発表。
教科内容学(教員養成系大学の教科専門教員が、その専門内容を教育実践における教科内容として構成し、体系化すること)において、美術が対象とする内容や構造の意味とそれを知る方法を確定するし、そこから美術の教科内容の原理を導き出し、それを基にした授業実践例を発表しました。今回は、その認識論としての定義の共通構造案を提示し、各教科が同じ構造で定義することによって、教科間の特質の違いを見出すよう試みました。

アカデミック・カフェ報告
アカデミック・カフェ報告
アカデミック・カフェ報告
アカデミック・カフェ報告
教科内容学会でのプロジェクト研究発表
教科内容学会でのプロジェクト研究発表
教科内容学会でのプロジェクト研究発表
教科内容学会でのプロジェクト研究発表
教科内容学会でのプロジェクト研究発表
教科内容学会でのプロジェクト研究発表
教科内容学会でのプロジェクト研究発表
教科内容学会でのプロジェクト研究発表
教科内容学会でのプロジェクト研究発表
 
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