地方美術館めぐり(4月30日〜5月12日)

春の飯綱高原
春の飯綱高原(長野県)

ゴールデンウイークに、帰省や出張仕事のついでに巡ったいくつか地方の美術館についてレポートします。

■須坂版画美術館・平塚運一版画美術館

須坂版画美術館・平塚運一版画美術館
須坂版画美術館・平塚運一版画美術館

長野県北部、須坂市に珍しい版画専門の美術館があります。
この須坂版画美術館には地元の版画家である小林朝治作品と、毎年逐次購入している若手作家の新収蔵作品、それと島根県松江市出身の版画家平塚運一の作品が展示されています。
平塚運一の作品はこの美術館内の特に設けられた分館的なスペースに常時展示されていて、須坂版画美術館は別名平塚運一美術館とも呼ばれます。
平塚運一の作品がこの地で展示されているのは、前述の小林朝治らとの交流で何回か須坂を訪れたためと書かれていますが、特に親密な関係であったとは思えずちょっと不思議な感じがします。
松江から遠く離れた須坂市に平塚運一の名を冠した美術館があることを、松江の、島根の人たちのどれほどが知っているか。おそらくほんの一握りだと思います。島根県立美術館にも平塚運一の収蔵作品はありますが、両美術館が交流したとか、松江市と須坂市が平塚運一作品を介して交流を図ったとか聞いたことがありません。
私にとっては現在の居住地出身の作家の作品を、私の妻の故郷である地で見るのは何か感慨深いものがありますが。
今回は運一が67歳で渡米してから33年間のアメリカでの作品を特集して展示してありました(運一は99歳で松江に帰って1997年102歳で他界しています)。いつもの(と言うのはアメリカに渡っても作風は変わらず)運一らしい朴訥とした彫り跡の素朴な味わいは、どこで見てものんびりホッとします。
http://www.culture-suzaka.or.jp/hanga/info.html

■ヤオコー川越美術館(三栖右嗣記念館)

ヤオコー川越美術館(三栖右嗣記念館)
ヤオコー川越美術館(三栖右嗣記念館)

昨年12月、埼玉県川越市にヤオコー川越美術館が、故三栖右嗣の作品を展示する美術館としてオープンしました。
5月4日、友人の誘いで川越観光中にこの美術館に立ち寄りました。三栖右嗣は1976年「老いる」で第19回安井賞を受賞以来、超具象の人気作家として活躍が良く知られています。
ヤオコーの創設者が個人的にファンだったそうですが、このような個人美術館ができるのもわからなくはありません。
しかも設計が伊藤豊雄であり、外観は上の写真のように華やかさはない小さな美術館ですが、こじんまりしたその飾らなさの中にも、柱や照明などにしゃれた面白さが感じられる、心地よいスペースです。また実は外観は単純な方形に見えますが、地面部分には水が張られていて、そこに丸みのある水面ラインが現れる仕掛けになっています。
私は三栖右嗣はじめ最近人気の超写実絵画作家は基本的に好きではありません。写実作品はそこに描かれているものだけがすべてで、それがなぜそう見えるかは問いません。そう見えるからそう描くのだと。私は絵画作品にはそこに描かれていない何かが鑑賞者を惹きつけるものだと思っています。つまり作品そのものではなく作品を媒体として作家と鑑賞者の関係で世界が築かれるものだと。そうした開かれ方が現代の絵画には必要なのだと思っています。また技術は何をするのでも必要ではありますが、絵画としての描写力はそれが絶対ではないと思っています。ダダの洗礼をまともに受けた私は、描写力を批判的に考えない作品にはどうも違和感を覚えてしまいます。
ただその写実作家の中でも三栖右嗣は、グラッシュ等のいやらしげな古典手法を使わず、ぺたぺたと油絵具を気持ちよく塗りつけ、またかなりの省略をすることも多く、絵になりそうもないようなものを好んで描くなどの点は気に入ってはいますが。
http://www.yaoko-net.com/museum/

■筑波大学芸術系収蔵作品展(筑波大学研究棟ギャラリー)

筑波大学芸術系収蔵作品展
作品展示風景

番外編です。
私の大学時代の恩師、山本文彦先生が、日本芸術院会員に就任したことを祝賀する会が、連休中に筑波大学で催され出席してきました。
私は山本先生の大学院での指導学生第1号だったので、祝賀会ではスピーチまでさせていただきました。
祝賀会に合わせて山本先生の個展が大学会館内のギャラリーで催されていましたが、他にもいくつか関連事業があって、私たち卒業生が大学に寄贈し、筑波大学の収蔵となっている作品も展示されていました。写真が筑波大学研究棟ギャラリーでの展示の様子です。手前が私の1994年の作品です。懐かしい作品に対面しました。隣が、前々回のtopicsで紹介した野沢二郎、その隣は井草裕明、その隣は加藤修の作品。

■松本市美術館

松本市付近から望む北アルプス
松本市付近から望む北アルプス

5月5日、長野からの帰りがけに松本市美術館に寄りました。

松本市美術館
松本市美術館

松本と言えば草間彌生の生誕地。美術館でも庭の大きな野外作品(写真①)、入口受付付近の「かぼちゃ」(写真②)をはじめ自動販売機(写真③)まで草間彌生一色でした。また展示では草間彌生「魂のおきどころ」と題して、初期の絵画からいくつかの小さめなインスタレーションまで、かなりのスペースを取って常設展示をしていました。

草間彌生の野外作品
写真①
草間彌生の作品「かぼちゃ」
写真②

世界的に活躍している草間は郷土の誇りであると思いますが、認知されたのはつい最近のことのようです。60年代のパフォーマンスなどは、当時はかなりセンセーショナルなもので、郷里の人からは逆に煙たがれる存在だったようです。草間の世界的な人気が松本に逆輸入されて、後から認められたということになるのだと思います。

自動販売機
写真③

他には郷土出身の作家−冬山を描く田村一男、書道界で教育面でも功績のあった上条信山、彫刻家の細川宗英など−の作品がそれぞれ部屋を区切って個展形式で紹介されていました。
設計は宮本忠長という、くしくも長野県須坂市出身の建築家によるものですが、近代建築でありながら、明るく伸びやかな空間が非常に居心地の良いスペースになっていました。
http://www.city.matsumoto.nagano.jp/artmuse/index.html

■小さな夢美術館「山中現」木版画展

ギャラリートークをする山中現氏
ギャラリートークをする山中現氏

鳥取県米子市の錦海団地の一角に個人のお宅を改造した美術館、「小さな夢美術館」があります。そこお住まいだった岩田さんという方が公務員をしているかたわら、10年前から収集した版画作品や、ご本人が企画した版画展を開く私設美術館です。五年前に御主人が他界なされ、その遺志をついで奥さまががんばって続けていらっしゃいます。
現在(5/12-6/30)木版画で人気の高い山中現の個展「心のかたち」展を開催しています。
5月12日は本人のギャラリートークがありましたが、ちょうどその日が私のやっている山陰中央新報文化センター版画教室の開講日にあたっていて、その日の講座は山中現展の鑑賞とギャラリートークを聞く会になりました。
ご承知のように山中現は木版などの版画作品が全国のギャラリーや版画雑誌などいたるところで見られる、超売れっ子の作家です。しかしご本人はまったく芸術家然としておらず、ごくごく普通の感じで話が始まりました。
木版画を選んだ理由、白黒の作品からカラー作品になった経緯や技法、版数など質問を交えながら淡々としかもユーモアを交えてお話ししていただきました。
面白かったのは氏が絵具や版紙にあまりこだわりを持っていないこと。絵具は最初に使ったのがホルベインのガッシュだったのでずっとそのままとか、紙は奥秩父で市販している安いものだとか。
私たちは版画家というとついマニヤックな趣味やこだわりがあるのだろうと考えがちですが、氏はそのようなこだわりがないことこそが、あの独特の緩さと緊張感との絶妙にバランスのとれた、とても安らげる作品の秘訣なのだと思います。
とは言っても、実はよーく見ないとわからないようなところで非常なこだわりをもっていて、彫刻刀で切り取った角をサンドペーパーで削ってにじみを出したり、微妙にずらして同じ色と形を重ねたり。これもまたことさら声高に言ってはいないですが、プロだからこそやって当然のことです。
そのような作家の精神をとても面白く感じました。
http://yumebi.blog133.fc2.com/

ONE MORE CUP OF COFFEE [上]

空と樹木

 昔々、もう30年も前の話だが、僕が大学生になってアパート暮らしを始めた頃のことだ。先輩の紹介で池袋にある喫茶店を知った。「C」という名曲喫茶だった。僕はアパートから池袋に出てそこから地下鉄で学校まで通っていたが、「C」は池袋駅に行く途中にあった。
 「C」はかなり古い、趣のある建物で、内部は暗く複雑な構造になっていた。地下があり、中二階や三階まであった。中にはどこを迦ったらたどりつけるのかわからないような部屋もあった。僕はよくその中二階を利用した。そこはいわゆる鑑賞室で、テーブルとイスが皆同じ向きに縦五列、横四列、計二十脚ほど並んでいた。イスはゆったりとした一人用のレザーのソファで、一人で来た客がそのソファに深々と座り、思い思いに音楽を楽しんでいた。
 濃く酸味の強いコーヒーを出す店で、高級ではなかったが、コーヒーを常飲しだした頃だった僕にはとてもおいしく感じられた。今でもコーヒーは苦味よりも酸味の強いモカのようなもののほうが好きで、コーヒーの酸味は他のどの飲食物のどの味よりも貴重なものに思えてならないのだが、それはここに行った回数が多かったためだろうと思う。
 当時、一杯150円のコーヒーを飲みながら、僕はそのソファで一人もの思いにふけり、本を読み、日記をつけ、画集をながめ、モーツアルトを聞き(僕のリクエストはいつもモーツアルトのコンチェルトだった。もっともそれがかかるまでには二時間ほど待たねばならなかったが)、ときどき居眠りをし、試験前には勉強もした。僕は大学やバイトからの帰りに「C」に立ち寄り11時の閉店までいることが多かった。もちろん大学の友人やガールフレンドと行くこともあったが、それも最初のうちだけで、次第に一人で行く場所になった。友人となら他にいくらでもしゃれた喫茶店はあったし、ここは自分一人の場所としてあまり他人と入りたくないという気持ちが働いた。「C」は僕自身の場所であり、他に自分の居場所と呼べるものはなかった。
 当時、僕は四畳半のアパートに住んでいたが、がらんとして殺風景なその部屋に長くいると圧迫感で息がつまりそうになり、僕は自分の部屋が好きになれなかった。隣の部屋には長野の工専をでて何年か浪人したのちN大の文学部に入った年齢不詳の大学生がいて、彼は自活するために一晩おきに新宿のビルの夜警をし、それがない日は皿洗いのバイトをしていた。彼は部屋にいるときは必ず難しい本を読んでいて、僕が窒息しそうな顔をして行くと絶対に役に立ちそうもないその内容を解説してくれたが、バイトでいないことのほうが多く、彼がいない時には僕は勝手に大きなレコードプレーヤーとビートルズのレコードしかない彼の部屋に入りこみ、4年前の解散のときに発表された最後の曲、「ア ロング アンド ワインディング ロード」を繰り返し聞いた。
 前の部屋には大阪出身でW大のロシア文学科に六年も在籍している、これもまたかなり老けた大学生がいた。案の定、彼の部屋の本棚にはマルクスの「資本論」を始めとする著作集がずらりと並んでいた。よく三人で話をしたが、N大生とW大生はマルクス・レーニン主義やその他、諸々の難しいことについて熱っぽく語り合い、僕はただタバコをふかしながら聞いているだけだった。二人の話は僕にはどこか別世界のことのように聞こえた。当時、僕には回りの世界が僕自身とどう関わっているのかよくつかめなかった。まるで地面から15cmほどの高さの空中を歩いているような気分で毎日を送っていた。二人は僕をほとんど無視して話をしていたが、そのほうが僕も気が楽だったし、そもそも僕は何も言うべき言葉をもち合わせていなかったのだ。
 W大生にはその年芸術系の大学に入学した許嫁(いいなづけ)がいた。彼はその子の家庭教師をしていて、彼女が大学に入ると同時に婚約したということだった。僕はソビエト社会主義と学生にして十八歳のいいなづけを持つことの関連がよくわからなかったが、ときどき遊びに来るその婚約者はなかなかチャーミングだった。
 僕は貧しいN大生に池袋にあるものすごく安く品数の豊富な定食屋(そこではのりのつくだ煮の「ボトルキープ」ができた。今では全国展開をする一大飲食店になっている)を紹介するついでに、「C」も教えたりした。愛すべき隣人に恵まれたとはいえ、アパートの部屋は僕にとってあまり気分のよい場所ではなかった。三年の間、近くのお菓子屋−卒業のころにはコンビニエンスストアになったが−でバイトをしていて、そこで店を閉め、売り上げを勘定したあと店の人と麻雀をしてずるずるとそのまま泊ってしまい、そこから学校に行くことも多かった。

夜の店

 大学にいても僕は何をやったらよいのかわからない状態だった。一応芸術学科・絵画専攻に籍を置いていたので、午前中は毎日モデル実習があったが、登校するのはだいたい実習が終わる昼ごろだった。僕はモデルのいなくなったモデル台に寝ころがり、先輩たちとトランプか花札をやって、そのあと雀荘か喫茶店に行った。僕たちの多くはモデルを使った実習に意味を見いだしてはいなかった。
 20世紀に入ってからのダダイズムと1960年代のポップアートという二つの芸術崩壊運動の洗礼を受けてしまった僕たちは、おいしいところをとられてしまったケーキを見つめる子供のように、ただ茫然と立ちすくむしかなかった。新しい試みは何もかもちょっと前の人々がしつくし、僕たちに残されたのはそのざわめきの余韻だけのような気がして、苦々しい思いでいっぱいだった。60年代の乱痴気さわぎの後におとずれた70年代の沈黙は、いつも重苦しく僕たちの上にのしかかりいらだたせた。あきもせずモデル実習をさせる大学側に腹を立てていたが、かといって自分の作品を制作するとなると、井戸の奥底をのぞきこむような絶望感を感じた。
 絵画にはもう未来がないといわれ始めた時代だった。友人の何人かは、版画や立体作品に転向していった。中には袋小路に追いつめられたねずみのごとく、キャンバスにペンキをぶちまけたり、油を流して火をつけ天井を焦がしたりしていた者もいたが、そんなものには何の新鮮味もなかった。僕は自分の描くべきものが在学中は見いだせなかった。絵を描くということは、僕にとって生活の中の単なる一部ではなかった。それは生きることと同義であり、絵が描けなければ生きている意味などなかった。その実存的重さに匹敵するものは恋愛問題以外にはなかった。何をしていても絵(と女性)のことが頭の中にあり、絵が描けない僕を苛み憂うつにした。「C」でタバコをふかす日々が続いた。「C」で一人になると、やっと落ち着いて自分自身の問題と制作の問題について思いをめぐらすことができた。
 当然、授業にもほとんど出なかった。ある授業などは最初の1回出席した後は最後のテストのときしかでなかった。そのとき教授の髪がやけに薄くなったのを見て1年の長さを感じたりしたものだった。それでもどうにか単位はほとんど取れた。それはカンニングやもっとひどい不正行為がわりと自由にできたからだ。僕たちは女子のノートをコピーし机の下に忍ばせ、フランス語の辞書の内側に訳を書き、ひどいときには監督のいなくなったすきに提出された答案を写したりした。
 こんな、とても他の大学では考えられないことができたのも理由があった。僕たちが入学した頃−70年代前半−は、60年代に吹き荒れた学生運動の嵐が東大安田講堂バリ封や佐藤訪米阻止闘争などを境に勢いを失いつつあった。僕たちの大学も闘争で入試が中止されたりしたこともあったが、最後にして最大なものは大学移転阻止闘争だった。たび重なる紛争に業を煮やした政府が、新大学構想として紛争のない(できない)、つまり大学自治のない大学設立をかかげ、そのやり玉として僕たちの大学があげられていた。その移転阻止闘争も、僕が入学した年の春、法案が国会を通りあえなくつぶされた。僕は入学すると同時に何が何だかわからないままデモに加わり、国会議事堂の囲りを回ったあと、その闘争の終篤に立ち合った。
 僕たちの大学は、「廃校」という、大学としては実にめずらしい運命をたどることになった。春がめぐって来ても新入生が入って来なくなった。年ごとに校内には学生が少なくなっていった。校舎はひっそりとして、まるで定年退職を迎え、その身をもてあました老人のようなわびしさを漂わせていた。僕たち在校生は学校祭でバーをやり、パフォーマンスをやり、精一杯乱痴気さわぎをする以外はどうすることもできなかった。一人一人が喪失感をいだいていた。それはこんな状況に身を置いた人間以外わかり得ない喪失感だった。僕たちはその大学の最終学生として廃校と同時に卒業した。
 僕は四年閻の大学生活を、抜け殻になってしまったような校舎で、60年代のざわめきの残照のようなせつなさとやり場のなさを背負った時代の中で、かなり健気(けなげ)に悩み、飲み、遊び、麻雀ではたいてい負け、バイトにあけくれ、何度も禁煙し、女の子とも人並につき合い、そして絶対的孤独の中で送った。

都会の夜空

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