ボルタンスキー展ほか
今回も掛け持ち出張の合間を縫っていくつかの展覧会を見ました。
■クリスチャン・ボルタンスキー展(国立国際美術館)
照明は消され、その所々で裸電球が光りまた明滅している会場に、心臓音、風鈴の音、叫び声(のようなもの。海に向けた収音機に集まるクジラの声?)が断続的に聞こえる。その中にある47ものインスタレーション作品を巡る。1969年からのボルタンスキーのスタイルをほぼ網羅した記念碑的展覧会だ。作品同士をつなげて見せたり、部屋を区切り独自の空間で見せたりしてあり、光、音、映像等とともに巡ることの臨場感も楽しめる。
生と死(今回は「来世」まである)、記憶、匿名性という根源的なテーマをこれだけ多くのスタイルで、そのどれもが重量感と密度を持って迫ってくる展示は見ごたえがあった。今までの経験で、ウームこれはどうかな?と思っていたものもいくつかあったが-例えば骸骨の影絵や海岸の鈴の音-今回は軽いほうのヴァリエーションとして、振れ幅のうちかなと思った。
しかしやはり無名の人々、時にはボルタンスキー自身も無名の一人として扱った作品に真の内容があるかな。心臓音や新聞の切り抜き、ピンボケの顔写真などのほかに、ボルタンスキーが今まで生きてきた時間を秒数としてカウントしている赤いネオン管の作品。その数字は、彼の死とともに止まる。壁の隙間からの覗いた部屋に置かれている多くの電球。それは毎日2個ずつ消えていく。等々。
それにしても来場者の半分以上が若い女性で、越後妻有や瀬戸内の芸術祭の影響か、かれは人気あるんだな。
■「霞はじめてたなびく」(佐藤雅晴、西村有、吉開菜央)
トーキョーアーツアンドスペース本郷
(個人的にですが、)佐藤雅晴さんの追悼のためにどうしても行かなくてはいけないと思っていた。佐藤さんががん闘病中で昨年余命宣言されていたことは、トーキョーアーツアンドスペース本郷のHPで彼自身が告白していて知っていたが、先日「六本木クロッシング」展の佐藤さんの「Calling」をFBにポストしたのは、作品に純粋に共鳴したからだ。逝去されたのはつい先日知った。
3階建てのギャラリーは1階ずつスペースが作家に与えられていて、1階が佐藤さん。《福島尾行》は震災後の福島の日常を淡々とまたゆっくりと描いている。(スクリーンの前のピアノが無人のまま低い音楽を奏でている)映像は所々アニメーション化されていて、季節の移ろいやその場の空気が身体的感覚を通してしみじみと浮かび上がってくる。もう1点《雪やコーヒー》はモノクロームアニメーションで、コーヒーに角砂糖を入れる瞬間がスローモーションで繰り返される。角砂糖にコーヒーが滲みこむ。何でもないがいつくしむべき人生がゆっくりと流れる。
2階は吉開菜央さんの映像とテキストのインスタレーション。「石の話」や「金魚の話」など、はじめも終わりもない、目的も大したオチもない、ただたまたま経験したことを綴ったテキストが、自転車に乗る映像とともに並んでいる。生身の自分が風を切る身体感覚。その場でたまたますれ違ったものや経験したこと(金魚や石)。それは意味が発生する前の無垢でむき出しの世界だ。(余談ですが、吉開さんはあの米津玄師の「Lemon」のミュージックビデで踊っている女性だそうだ)
3階は西村有さんの絵画。見た瞬間、「昨日VOCAで見た作品だ」と思った。その時もすごくいいなぁと思った。(VOCA他いくつかの展覧会レポートは後日HPのtopicsにアップしたいと思ってます)その場で見た景色ではなく、いつかどこかで見た記憶の彼方から染み出てきたような風景。直接描いていない。何が見えるのかわからないところからたどり着いたような風景。意識の底にある世界像。
この展覧会を見て言えることは、3人とも、何があっても何がなくても人生はいつくしむべきものだということ。そのやさしさにうっとりしてしまう。
佐藤雅晴さんのご冥福をお祈りいたします。