いくつかの書評&追悼(2017.12-2021.2)

2021年2月28日
会田誠「げいさい」

自身の作品では、美術そのものを疑い、そして物議を醸す作品が多いが、「げいさい」は文学の制度内で実にオーソドックスかつ王道的な小説だった。時空の設定や人物造形なども、美術作品では一ひねりも二ひねりもするのに、気持ち悪いくらい素直。
予備校生当時の自身の実体験であると思わせる(かなりの部分本当にそうであろうが)リアリティを武器に、美術を志すものの心持ちや予備校、受験作品などの細部を描きあげていて、それは納得以外の言葉がないが、経験的・個人的な出来事にかこつけて、実は美術大学、美術予備校(いわゆる研究所)、現代美術、美術批評などの定点的位置を示したいではないかと思えるくらい、客観的に的確に美術というものを捉えていると思った。
私は会田誠のいくつかの作品(というか、結構多くの作品)は好きではないが、このような美術に対する解釈や姿勢を持っていることがわかるので、作品に信頼感は持てる。
そして全体ではこの小説は大いなる恋愛小説として読める。面白かった。

会田誠「げいさい」

2020年8月11日
村上春樹『一人称単数』

それはどこを取っても村上春樹だった。短編集なので「騎士団長殺し」よりも軽いけど、「女のいない男たち」とそんなに変わらない気がする。いつものようにちょっとした奇譚だけど、それが短編だけに、重くなく、言ってみれば爽やかだ。
ともかく面白くは読める。
ちょうどいい程度の謎や問いかけを残し、そのまま空中分解する。人生って不思議だけど、そうした理解できないところで世界と自分の関係があるって、そうかもしれないよねと思わせる。
しかしどこを取っても村上春樹と言うのは褒め言葉だろうか。もうかなり長く村上春樹をやっているような気がする。初期三部作のように、僕の人生に決定的な影響を与えるというようなことはもうないだろうな。そろそろ村上春樹でない村上春樹を期待したいけど、それは無理な注文か。

村上春樹『一人称単数』

2020年8月7日

「劇場」をPrime Video で見てびっくりした。小説は読んでいたから、最後沙希が田舎に帰って終わりだなと思ったらあの展開。 永田の(というのは又吉の)演劇論の多くがカットされていたのは残念だったけど、最後の「屋体崩し(というのか)」は「劇場」を恋愛映画として成立させていたんじゃないかな

「劇場」

2020年7月17日
「あちらにいる鬼」井上荒野

小説家の井上光晴と瀬戸内寂聴の不倫関係を、井上の娘である荒野が描いた小説。時代を追って寂聴と井上の妻の双方の視点から話を進めていて、スリリングだ。
事実を下敷きにしているのは確かだが、これは全くの小説だ。
実際あったというリアリティや、本人しかわからない事実などというものにその小説成立の根拠を頼っていないという点において小説としか呼びようのないものだ。
そして文章はいつものように虚無と諦観が通奏低音のように流れていて、惚れ惚れするくらいうまい。
これは荒野などというとんでもない名前をもらってしまって、またその父親と同じ生業に就いてしまったものの覚悟と矜恃なんだろうな。

「あちらにいる鬼」井上荒野

2020年6月28日
「口笛の歌が聴こえる」嵐山 光三郎

1964年主人公の栄介(嵐山光三郎自身)が大学(國學院大学)3年生時から、1969年平凡社の編集者として活躍するまで。混迷する1960年代末の日本を、次から次へと実在の人物(唐十郎、三島由紀夫、永山則夫など数百名の有名人)と交差しながら自由奔放に駆け抜ける自伝小説。
ともかくすごい。政治に文学に演劇に音楽に美術、酒に喧嘩に恋愛等々どれも命がけで熱くて自由で無責任でヤバイ。私は嵐山より10数才下だが、この時代を駆け抜けた破天荒な若者たちの一人ではあった。この熱さはなんとなく記憶がある。ともかく人間的な時代だった。
ちなみに、登場人物のうち美術関係者は、中西夏之(コンパクトオブジェを7千円で買う)、赤瀬川原平(村松画廊の個展に行く)、池田満寿夫(銅版画を買う)、ジャスパー・ジョーンズ(ポスターを買う)、横尾忠則(太陽の特集で取材)、安西水丸(ニューヨークに行く)、東野芳明、加納光於など

「口笛の歌が聴こえる」嵐山 光三郎

2020年6月3日
「私をくいとめて」綿矢りさ

何気ない日常を送る、30代で一人暮らし、センシティブな女性の心の機微を、瑞々しく、また温かい眼差しで描いた「私をくいとめて」綿矢りさ。60歳過ぎたオッサンとは真反対の主人公だけど、と言うか、だからこそか、楽しめる小説だった。

「勝手にふるえてろ」綿矢りさ

こちらはいつもの綿矢の毒が結構効いている。何気ないに日常に狂気が走る。映画では松岡茉優が好演していた。

「勝手にふるえてろ」綿矢りさ

2020年5月29日
「人間」又吉直樹

「人間」(又吉直樹)は三部作になっていて、それぞれが独立した完成度の高い小説として成立する。一、二部は表現者を目指す自意識過剰な若者たちが、グズグズと人間や世界、芸術について思弁的に語り合いながら、ある種の挫折に帰結する物語。
「火花」「劇場」と設定や文体、コンセントは同根だと思うが、時空が前二作よりかなり妖しくなっていて良かった。
第三部は主人公の沖縄の両親、特に父親の話。これは一、二部が登場人物に語らせることによって小説を構築しているのに対して、ほとんど父親の行動だけを通して原初的、土着的生と死を伝えていて、より小説的エネルギーに富んでいる。面白かった。こんな表現も出来るんだ。

「人間」又吉直樹

2020年4月27日
「パック・イン・ミュージック」「ぴったしカン・カン」…小島一慶さん死去

パック・イン・ミュージックでは野沢那智、白石冬美、愛川欽也ももういない。「ヤングミュージック1010」でアシスタントのsophomore(当時は何のことか分からなかった)リリー・チェンの声がかわいかった。レターメンのSealed With A Kissをよく聴いた。

 

2019年2月20日
「ここ過ぎて」瀬戸内寂聴

瀬戸内寂聴の「ここ過ぎて」は北原白秋の2番目の妻、章子の話だが、それに時々詩人の山本太郎が出てくる。昔好きだった山本太郎は白秋の妹、家子の息子だった(父親は山本鼎)のか!と思っていると、今日たまたま読み直していた高野悦子の「二十歳の原点」の中に、彼女が自殺する2日前の日記で、「山本太郎詩集が私を招いている。」と書いているのを発見。そしてそこからの記憶で、高校3年時、愛読していた旺文社の「蛍雪時代」のある号で、山本太郎が選者をしていた「高校生詩壇」の第3席に、美術部の親友の名前を見た時の何とも言えない心持ちを思い出してしまった。

「ここ過ぎて」瀬戸内寂聴

2018年8月20日
「ビニール傘」岸政彦

社会学者、「断片的なものの社会学」著者の小説。
短いのですぐに読めるが、何度読んでもそこがどこなのかも、登場人物が何人いるのかもわからない。人や時空の関係性があいまいで、結びつかないのだ。それが、最後まで読んでもネタ晴らしのようにどこかに収束するということもない。わからないまま終わるが、これは作者が意図的にやっていることで、そのまま読むのが良いのだ。どうやらこの作者は、「これはこういうことだ」と断定する(あるいは結論付ける)ことを徹底的に嫌う人だ。
断片を繋ぎ合わせたものだけが世界だという感覚-それはどこへも収束しないのだ。社会学は科学である限り、ある種の普遍性、一般性へと人間の行動を還元化していくものではないのかとも思うのだが、この人の態度はその対極にあるように思える。分析を拒む社会学者というのも面白い。

 

2018年8月19日
「短歌の友人」穂村弘

生協にサイン本があったので思わず買ってしまった。現代短歌界の旗手、バリバリの歌人が現代短歌を評すること、それは評論家によるそれでもなければ、自歌の解説でもない。その両方を踏まえた上で、自省的に全体像を捉える目がなければできないことで、それが彼の場合ものすごく際どくまたダイナミックでそれがこの評論の魅力だ。一行の文章、一首の引用も彼にとって命がけの行為である。その全部が「お前はどうなんだ」という問いを背負っている。その責任を持ちながら、これだけ短歌の芸術性と本質的な意義の上で、持論が展開できることが彼の歌人としての高い資質を感じさせる。 それにしても、穂村の評論を読む限り、良くも悪くも世界と個が分断され、取り付く島のない無重力的な状況が、短歌界を覆っているのがひしひしと感じられ、その中での破れかぶれ的現代短歌スタイルは、人間の悲惨さを超えてある種カタルシスを覚える。

「短歌の友人」 穂村弘

2018年6月11日
「苦役列車」西村賢太

日雇いの話である。どうしようもなく自堕落な日常、面白い展開があるわけでもなく、そこからヒューマニティや概念化できる世界観も生まれない。しかし、読んでいてなんとも面白い。 太宰もびっくりの、いつまでたっても句点を打たない長々としたセンテンス……。
この小説を面白くしているのは、自虐的ながらも飄々としたユーモアのある、この狂言回しのような文体である。現代の私小説とか言われているが、透徹したリアリズムとはあまり縁がない。いくら実生活を基にしていると言っても、小説であるからにはイメージの世界でありその点でセクハラ的だとか、不快だとかいう倫理的な読み方は間違っている(女性がどう感じるかはわからないけど)。日常を描いていても、読者体験としては脱日常であるのが文学。 そんな感じだから、後半めでたく友人ができて会話文が多くなると、面白さが半減したような気がした。

 

2018年5月18日
「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリアンス」滝口悠生

東北への原付バイク旅、高校時代の美術準備室、絶対だった房子の存在、ジミヘンの真似して焼いたギター・・・・本当にそれらはあったのか。こうであったかも知れない記憶、なったかもかもしれない記憶。過去のそれらの出来事は今の自分にどう結びついているのか・・・・
過去と現在が互いに影響を与え合い、なんとも不確かだがそれが愛しむべき人生の時間なのだ。だけど最後にそれが宙に浮いたまま、でも何となくそうなんだよなと納得して終わるのは難しい。その部分では「死んでいない者」のほうがよくできているのかも。

 

2018年5月11日
「死んでいない者」滝口悠生

故人の子孫一族郎党合わせて27人も出てきて、家系図を書きながら読まないと誰が誰だか分からない。死者の通夜一夜だけの物語。それぞれが普段共有してない日常と価値観を持ちつつ、だけどそれぞれの色々な思いや事情が絡み合って、個と集団、生と死の堺がぼやけていくのが、なんとない文章の中からじわじわ伝わってくる。 平凡な、記憶にも残らないようなこと、本人でさえも忘れてしまうようなことを、まさにそれ故に人間の真相として、この人はどうしてこれだけうまく書けるのだろう。 何でもないから何ともすごい。そして文章がとても優しい。

 

2018年4月30日
藤枝晃雄氏死去

厳格なフォーマリズムの批評家で、その立場からの攻撃的な論調や文体は、そこまで言わなくても、と思うくらい徹底していて怖いほどだった。読み物としてユニークな東野芳明と対照的。「現代美術の展開」(1977)もものすごく難解で、ラインを引きつつ何度も読み返した。懐かしい。

「現代美術の展開」藤枝晃雄

2018年4月22日
「百年泥」石井遊佳

洪水の後発生した泥から掘り上げられた数々のモノから私の記憶は蘇り、またひょんと他人の思い出に入りこむ。それは次第にいつのことかわからなくなり、最後は誰の記憶かも判然としなくなる。そして様々な記憶の総体として、またすうっと橋の上で泥を見ている自分に戻る。読書の愉悦。

 

2018年4月7日
「おらおらでひとりいぐも」若竹千佐子

こんなすごいとは思わなかった。島田雅彦の選評の通り、「自分を構成する要素としてのコトバ、家族、自然、時間などを巡る考察」であり、思弁的かつセンチメンタルな「自分探し」の物語。論理的で暖かい。

 

2018年3月12日
「マチネの終わりに」平野啓一郎

美男美女、才媛と才能ある芸術家。そんな取り合わせは好みではなかったけど、しかし、思わぬことで関係が崩壊した(結構ベタだけど)後の二人の心情と行動は、人間の精神性の理想とリアリティが、硬質な叙述で見事に表現されていた。最後の数ページは鳥肌が立った。

 

2017年12月3日
「ザ・フォーク・クルセダーズ」はしだのりひこさん死去

フォーク・クルセイダースは時代の精神を体現しているグループだった。「悲しくてやりきれない」「イムジン河」。解散後はシューベルツ時代の「風」。中学生だった。

最近のあれこれ

セゾン現代美術館
セゾン現代美術館

○軽井沢セゾン現代美術館(5月5日)

久しぶりに長野の義理の実家に帰ったついでに、軽井沢まで足を延ばしてみた。
連休中ということでどうかなぁと思っていたが、予想以上の混雑。小諸で高速を降りてすぐ動かなくなってしまった。予定していた旧軽まではとても辿り着けず、妻と娘の要望で仕方なく昨年開館の「千住博美術館」へ。千住博は直島の「家プロジェクト」や羽田空港などで結構見てはいるが、実は大嫌いで、どうってことない旧套的な作品があれだけもてはやされているのがホント困ったものだと思っていた。しかしながらこの美術館の設計がSANAAの西島立衛ということから一度は見てみたいなぁと、複雑な心境。入り口のところで中を覗く。断固入らない。多くのガラスと、丸くくり抜いた天井を用いた解放的な空間は、さすが西沢らしかった。それから付設のベーカリーカフェ、「ブランジェ浅野屋」へ。ここのパンは有名なので寄らなくては。確かにおいしかった。
実は軽井沢に行くということで密かに考えていたことがあった。それは中軽のセゾン現代美術館に行くこと。同乗者の反対を押し切って、渋滞を避け、わき道をくねくねと廻りながらセゾン現代美術館に到着。セゾン現代美術館へは確かイリヤ・カバコフらが出品していた、1991年の「境界線の美術」展以来22年ぶり。
姉妹館の西武セゾン美術館(池袋西武デパート内)とともに私の青春期と美術への傾倒に少なからず影響を与えてくれたこの美術館、特に私が修論で扱ったジャスパー・ジョーンズやアンディ・ウォーホルなどのポップ・アートの収蔵が充実していたこの美術館がものすごく懐かしくて、入り口の若林奮(写真1)の作品のある小路を歩いている時などわくわくドキドキ。

軽井沢セゾン現代美術館
(写真1)

企画展は「千紫万紅」展。セゾン現代美術館収蔵(プラス旧西武セゾン美術館収蔵)の現代美術と、鎌倉や江戸など様々な時代の曼荼羅、陶磁器などとを組み合わせた展示になっていた。しばらくはよく知っている近・現代美術作品を懐かしみながら楽しんでいたが、次第に物足りなくなっていった。それらの作品は思い出に浸るにはいいけれど、それだけで新しい刺激がないのである。展示で新しいところといえば日本の現代美術家の中村一美、堂本右美、石川順恵などで、彼らも1990年代くらいにずいぶん見ている。それ以降の新しい収蔵がない。最初のわくわくはどこへやら、見終った時にはかなりのがっかり感に支配されていた。これが西武の現状なのか、やっぱりな。私たちの知っている70年、80年代の西武はこんなんじゃなかった。
私と同年輩の方ならよくご存知だろうが、70,80年代の西武セゾン美術館・セゾン現代美術館は、今までの百貨店の宣伝と販売(利益)目的としての展覧会とは全く異なった、文化の発信基地としての機能を有したものだった。それはセゾングループ総帥の堤清二の意向を受けたものであり、またその活動はその後バブルの頃に流行したメセナの先駆けでもあった。現代美術の展示、紹介に特化したその戦略は、人々の西武に対する認識を一新させ、百貨店の文化運動の価値を飛躍的に高めた。しかしバブル崩壊後の経済悪化にはやはり耐えられず、西武は方針を転換せざるを得なかった。西武セゾン美術館は閉鎖され、現代美術館もこの状態ということであった。今の西武が乗っ取り騒動で揺れているのがなんとも象徴的だが、ここでこの現状を見て確かになと、変に納得してしまった。
久々の軽井沢は懐かしさとともにほろ苦い一日だった。

○滋賀県立近代美術館(6月16日)

〔exhibition〕で紹介しているように、6月に大津でのCAF.N展に参加したが、その間を縫って滋賀県立近代美術館に行って来た(写真2)。天気も良く中庭の緑(とカルダー作品)がまぶしい美術館だった(写真3)。

滋賀県立近代美術館
(写真2)
中庭の緑とカルダー作品
(写真3)

旅行や学会等で地方に行くと、できるだけそこの美術館を訪れるようにしている。これまでも三重県立美術館、熊本現代美術館、石川県立美術館、静岡県立美術館、愛媛県立美術館、福岡市立美術館、兵庫県立近代美術館、愛知県美術館、埼玉県立近代美術館、群馬県立近代美術館、栃木県立近代美術館などなど訪ねてきたが(しかしどうして近代と名が付く美術館がこう多いのか)、どの美術館も特徴と趣があり楽しめる。これは私の勉強というよりも趣味となっている。
私が地方の美術館に行って楽しんでいるのは企画展よりも常設展だ。つまりこの美術館はどのような作品を収蔵しているかに興味がある。地方の公立美術館ではだいたいどこもが近代日本画、郷土ゆかりの美術、外国の近・現代美術を幅広くという感じで集めているが、その中でも収集方針に特徴があるし、この作家はここの出身かとか、以前図版等で見たあの作品はここにあったのかという感じで対面した時にはとてもうれしくなってしまう。
滋賀県立美術館は、私の記憶では、60年代以降のアメリカ現代美術の収集に定評があるということだ。マーク・ロスコ、モーリス・ルイス、クリフォード・スティル、ケネス・ノーランド、バーネット・ニューマンらのカラーフィールドペインティングや、ジャスパー・ジョーンズ、アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンシュタイン、クレス・オルデンバーグ、ジェームズ・ローゼンクイスト、トム・ウェッセルマンらのポップ・アート、またフランク・ステラ、アンソニー・カロ、アド・ラインハート、カール・アンドレ、ソル・ルイット、ドナルド・ジャッド、リチャード・セラらのミニマルアートなど、この時期の美術をこれだけ網羅しているのは珍しい。
残念ながらこれらの作品の多くは国立国際美術館で開催中の「美の饗宴 −関西コレクションズ−」展に貸出しされていて見ることは出来なかった。ロスコとモーリス・ルイスの大きい作品見たかったなぁ。
それでもこう旅行がてらのんびり美術館をぶらぶらするのは楽しい。梅雨の晴れ間のぶらり美術館散歩だった。

○太田治子著「明るい方へ −父・太宰治と母・太田静子−」

太田治子著「明るい方へ」
「明るい方へ」

今回のCAF.Nびわこ展でのイベントの一つが、作家でエッセイストの太田治子氏の講演会だった。内容は現在執筆中の浅井忠と二葉亭四迷の為人(ひととなり)等の雑談に近いトークだったが、その中でも父・太宰治のことがちらちらと出てきた。多くは太宰に対して批判的な内容で、太宰に影響を受けた一人として興味深く思い、講演会の後、太田氏の著書「明るい方へ −父・太宰治と母・太田静子−」をサインをしてもらって購入。
この本は太田静子と太宰治との間に交わされた手紙や母の日記の分析を通して、二人の出会いから別れまでを丹念に記録したものだが、読んでみて驚いた。太宰と太田治子の母・静子との間にこんなことがあったとは。
太宰の愛人と呼ばれている太田静子は、女学生時代にファンである太宰に会いに行ってから3年間は手紙のやり取りだけで会っていない。しかも会ったのは合計しても十数日にしかならない。しかもしかも太宰が静子と付き合ったのは、太宰が静子に書くように勧めた日記が目当てだった。太宰はその日記をもとにあの「斜陽」を書いただけでなく、その文章のかなりの部分は静子の日記に書かれているままだった等々。
かなりショッキングな内容なのだが、太田の文章は母や太宰に対して冷静な目と優しい愛情を絶妙な割合でブレンドしていて、程よい距離感で書かれ実にすがすがしい一冊となっている。
太宰のことを「性格が八方美人的で、戦争へも、迎合するような文章を書いている」「孤独に耐えられない作家」「何かに巻き付いてものを書く作家」「極度の自己中心性」と、男としての狡さなども容赦なく見据えながら、しかしその最後は母を「捨てた」父・太宰を受容する心境に辿り着く。
また—-こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます—-といった母(「斜陽」のこの有名な最後の文章は静子の日記に書かれているままである)に対しては全身からの愛しさを込めて書いている。
父・太宰とは一度も会うことがなく、また生まれる前にその父の小説のモデルになった人生とは作者しかわからない感覚だろうし、著者が父母二人のことを書くことはまさしく自分自身の人生を見つめることだったであろう。
最後にそんなずるがしこい太宰の弁護をするならば、太宰治にとっては人生=作品であった。作家であろうと苦しんでいたことはよくわかると同時に、そのことに真剣になるあまり、女性に対してずるいおとこになっちゃたのかなぁという印象・・・・・・やっぱりそれでもダメなものはダメか。

高校の先生について

高校時代に描いた作品
高校時代に描いた作品

お久しぶりです。Topicsサボってました。

ずいぶん前になりますが、「青春の読書・・・・北杜夫氏死去の報に接して・・・・あるいは私は何からできているか?(2011.12.24)」で、ちょっとだけ太宰治のことを書いたのですが、遠藤周作同様、太宰は私にとって、私の性格あるいは資質のようなものを自覚させてくれた重要な作家です。
今回は高校時代の太宰の思い出から、その頃の先生方のことを書いてみたいと思います。

高校2年の3学期、現代国語の先生は教科書を使わず、私たちに太宰治の処女小説集「晩年」の文庫本を買わせ、それだけで授業をしました。私は「晩年」で、あの太宰独特のダラダラと切れ目のない文章になぜか引き込まれていきました。そしてさらに自分で「斜陽」や「人間失格」などを読み、奥野健男氏の評論を読んでみて、自分がなぜこんなに太宰に惹かれるのか納得がいきました。太宰ほど自分の弱さに目をそむけず、みっともない自分を露悪的に表わした作家はいないと思いました。そのように自分を見つめる態度は共感すべきものであり、またそれは人間としてとても「強い」と思えました。太宰が弱い人間だという一般的な見解は私にとっては太宰の表向きのポーズにしか過ぎないと思えました。

3学期の現国の期末試験問題は「太宰について思うところを記せ」という一問だけでした。私は「太宰の強さ」について書いたところ、ものすごくよい評価を貰いました。私が驚いたのは、太宰を強いと論じたのが自分一人だけだったことです。自分としてはとても自然に普通の感想を書いたのに、人と違う個性が現れたことに対して、そしてそれが評価されたことに対してとても不思議で面白いことに思えました。

その現代国語のF先生は、事あるごとに「野坂昭如はノーベル賞を取る」と言い続けていました。当時「蛍の墓」で直木賞を受賞してはいたものの、破天荒な行動でかなりのヒンシュクを買っていた野坂の才能への、あの思いこみはどこから出来てきたのか。印象深い先生でした。

そう言えば2年時の世界史のS先生も教科書をまともに教えてくれませんでした。18世紀のイギリス産業革命とそれに続くフランス革命から授業を始め、ベトナム戦争で1年が終わりました。近代からの人類の歴史について徹底的に詳しく授業をした替わりに、それ以前の歴史については何もしませんでした。「教科書の前半部分は自分で勉強するように」と。私はバカなことに、人間を知るには世界の歴史を知らなければならないとの思い込みから、半分しかやっていない世界史を大学受検の科目に選んでしまいました。したがって教科書の前半部分を独学で勉強し入試に臨みました。今考えると無謀なことをしたなと思いますが、時間と空間が交差してダイナミックに動く世界史の勉強は面白いものでした。

3年時の数学のM先生は自分で授業を行わず、生徒に練習問題を順番に当てておいて、その解答を板書させ、またその説明も生徒本人にさせて進めるという授業でした。私はその頃美術こそが世界の真理をつきとめられるものだと思い込んでいて、また国語と英語は好きで興味を持ってやっていましたが、数学はそれとは隔たったつまらないものだと断じていて、全然勉強をしていませんでした。ですのでその数学の解答の順番が回ってくるのが恐怖でした。なにしろ先生の代わりに説明をしなければならず、ちょっといい加減なことを言うと、教室の一番後ろの席に座っている先生がどなってやり直しをさせるので怖いこと怖いこと。毎回友達に聞きまくり冷や汗ものでしのぎました。

古典のS先生はお坊さんで、坊主頭の上太っていてお坊さんらしいお坊さんでしたが、顔面にも肉がついていたためか滑舌が悪く、授業でしゃべっていることがごにょごにょと良く聞き取れないのです。何を言っているのかまったくわからないので、みな聞くのは諦めていて、勝手なことをやっていました。その授業が3時間目の場合は早弁(弁当を昼前に食べる)をし、だいたいは本を読んだり他の勉強をしていました。そういう時は意外と勉強が進むものです。

倫理社会のA先生の授業は性教育でした。女性性器の大きく子細なイラストをもとに説明したり(うちの高校は男子高です)、コンドームを膨らませて飛ばしたり、かなり実践的でホンキな授業でした。この時期に性について正確な知識をつけさせることへの使命感のようなものがA先生にはあり、このようにかなり具体的であけすけな性教育で、それを受けるこっちの方が戸惑いましたが、ホント大切なことを良く教えてくれたと思います。先生の授業は前の半年は性教育で後の半年はキリスト教についてでした。悪魔が存在することについていくつもの根拠をあげ説明していました。

B.A先生の体育の1年最初の授業はいきなり空中回転でした。手をつかずに空中で回転する、ジャニーズがよくやっているあれです。それもマットではなく外の砂場でやったので怖かったですね。でも怖がるとできなくて、この競技の成否はいかに勇気をもって足を踏み出し回るかにかかっているのです。やってみると意外にできるものだということを学びました。
冬にはラグビーをやりました。ラグビーはルールがユニーク。ボールは前に投げられないし、腰から上の位置で投げてもいけない。試合では私はフルバックというポジションを守りました。文字通り一番後ろ。しかし一旦ボールを持ったら一目散に前に走らなければなりません。なぜなら私より前のプレーヤーは、私が抜いてその前に行くまでプレーしてはいけないのです。もちろんボールを前に投げてはいけない。キックするのはいいのですが、そのボールのところまで私が行かないと他のプレーヤーはやはり動いてはいけない。何という哲学的なスポーツ。
ラグビーでは点が入るのは「ゴール」ではなく「トライ」、終了は「ゲームセット」ではなく「ノーサイド」と言いますね。ふ–む、深いです。

そう言えばそれらの先生方がお休みして自習になることを、私たちの高校では「カクト」と言っていました。四角の中にカタカナの「ト」と書いて表わすからです。「図書館自習」の意味です。自習があるとそのカクトが毎朝職員室前の黒板に記入され、週番がそれをクラスに伝えます。週番の腕の見せ所は先生方と交渉して授業時間を替えてもらい、そのカクトを6時間目に持っていくことです。何しろ終礼(帰りのホームルーム)も掃除も(ついでに制服も)ない高校でしたから、そうすると5時間で帰れるのです。2つカクトがあったりしたら午前中で帰れる。皆大喜びしました。全く自由な学校です。

当時はホントのんびりしていて受験勉強は浪人してからやればいい的な感じで、先生も好き勝手なことを教えていました。私も授業中はよく眠っていて、放課後に美術室で石膏デッサンをやるために高校に行っていたようなものでした。あれから40年。私の青春を彩ってくれたユニークな先生方は、風の便りでは多くがもう亡くなっています。

ONE MORE CUP OF COFFEE [下]

空と樹木

 僕が「C」を利用した時間は、僕が僕の中へ中へと堀り進むための、その絶対的孤独な時間だった。自分にとって自分こそがこの世の中で一番得体の知れない存在だった。得体の知れない自分と、得体の知れない自分を見ている自分が「C」でのみ静かに出合え、交感できた。「C」の中二階の一番右側の一番後ろの席の窓からは、夕日のあたる樫の木が見えた。その樫の木はか細いながらも、そこには確固たる存在の美しさがあった。僕はその光景を今でも、中原中也の「ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。」(1)という詩の一節とともによく思い出す。
 「C」に通った回数が二百数十回を数えたころ卒業を迎えた。卒業制作はとりあえず種々のがらくた−タイヤ、鉄くず、紙、枝、壊れた機械等−を画面いっぱいに積み上げた作品を二点描いて提出した。評価は悪くなかったが、描写に頼ったその作品に僕は何の満足も感じなかった。
 大学を追い出された僕はどこにも行くあてがなかった。同級の女子学生達が必死に教員採用試験を受けたり会社訪問をしていた夏に、僕はのんきに北海道を旅行していた。今、思い起こそうとしても当時自分が就職に対して何を考えていたのかまったく覚えていないのだ。あきれた話だが、自分が大学を出て何をするのかなど考えてもいなかったようだ。僕がB型人間だからなのか、自分のやりたいことしかできないわがままな人間だった。絵が描けない状態で、他の人生設計など思いもつかなかった。
 しかたなく関東の地方の大学の試験を受け、あと2年だけ社会に出るまでの猶予を作った。虫のいい選択だったがそれでもいい知れぬ敗北感を背負って上野から1時間ほどの地方都市に引っ越した。そこでの2年間は、月曜から金曜まで制作に明けくれ、そのうち火曜と木曜の午後子ども相手の絵画教室を開き、土、日曜は東京に出るという生活だった。講義にはまったく出ずほとんどの単位を落とした。東京では友人の家を泊り歩きながら、以前と同じように映画や展覧会を見、麻雀やデートをし、「C」にたびたび立ち寄った。都会の雑踏になれきってしまっていて、そこに身を置くことで安心した。

歩道

 そんな生活を始めてから半年ほどした頃、「C」がとり壊されるという噂を耳にした。ショックだった。真偽のほどを知りたいと思っていると、新聞の夕刊に「C」とり壊し反対運動の記事が載った。店のオーナーが採算のとれない「C」をつぶし、当時爆発的に流行していたインベーダーハウスにしようとしているという話だった。「C」の愛好者は多かった。常連ばかりだった。その人たちが集まって抗議に行ったという内容だった。それ以上のことはわからなかったが、とにかく「C」はその存在の危機にあることは確かだった。その週末、「C」のドアをおした。いつものように2時間ほど本を読んで過ごし、レジに行ってその当時220円となっていたコーヒー代を払いながら、レジ係の女性に話しかけた。その女性は僕がここに通いはじめたときからずっとレジをやっていて、お互い顔は知っていたが、今まで一度も話をしたことがなかった。やせていて短髪で落ち着いた感じの品の良い中年女性だった。新聞記事のことから話を始め今の様子を聞くと、もうどうにもならないということだった。オーナーは新宿や池袋に持っているパチンコ店やレストランで収益を上げ、「C」は採算度外視でやっていたが、もうそういう訳にもいかなくなった。ゲームセンターになるのは必至だった。話をしているうちに僕はいつのまにか、自分がどれだけ「C」を愛し、自分にとって「C」がどれだけかけがえのない存在であるかを力説していた。強いロ調になっていた。彼女は私に言われても困ると言った。そんなことはわかっていたが、どうにも自制できなくなっていた。言いたいことを吐きだすように言ってしまうととび出すように外に出た。彼女の「ここがとり壊されたら私もやめます。」という声を背中で聞いた。小走りで駅に向かい、池袋駅前の交差点の赤信号で立ち止まったとき、ふいに涙が落ちた。

半年後、「C」はインベーダーハウスになった。古く落ち着きのある建物は全部とり壊され、近代的ビルに変わり周囲に調和した。その後2年ほどでインベーダーゲームが下火になると今度はレストランに変わった。僕は「C」がなくなって以来、池袋でおりることはほとんどなかったが、先日サンシャインビルに行く用事があって、かつて「C」があった辺りを通った。サンシャインシティに続くその辺りは、僕がいた頃とは風景が一新されていた。僕たちがよく通ったコンパや定食屋が姿を消し、ハンバーガースタンドになり、映画館ができ、舗道がカラフルなレンガで敷きつめられ、それが60階建てのビルまで続いていた。あの頃のうらびれた暗さはみじんもなかった。今では流行でしかなくなったミニスカートをはく10代の女の子達の明るい笑い声に包まれながら僕は周囲を見渡したが、レストランもなくなり、どこに「CONCERT HALL」があったのかさえわからなくなっていた。

 リチャードーブローティガンというアメリカの作家の言葉に、「時には人生はカップ一杯のコーヒーがもたらす暖かさの問題」(2)というのがあって、僕はその言葉がとても気に入っている。僕は今でも酸味の強いコーヒーが好きです。

(1) 中原中也「いのちの声」−中原中也詩集「山羊の歌」−より
(2) 村上春樹「象工場のハッピーエンド」より

夕焼け

青春の読書・・・・北杜夫氏死去の報に接して
あるいは私は何からできているか?

ある日の空
ある日の空

ちょっと前になりますが、2011年10月24日に作家の北杜夫氏が亡くなりました。84歳。
彼の小説は高校、大学時代に愛読し、その影響を強く受けていたので、かなりのショックでした。
精神の形成はもちろん終生に渡るべきものでしょうが、その活動が最も活発なのは青春時代であることは間違いないでしょう。どのくらいかはわかりませんが、その時の影響が人格の多くを形成しているのだとは思います。自分の精神を形作ったと思う人物が逝ったという報道にはいつも何がしかの感慨が溢れるものです。

北氏は私の青春どストライクの作家でした。「昆虫記」「航海記」「青春記」などの「どくとるマンボウ」シリーズは、畑正憲の「ムツゴロウ」シリーズなどとともに「青春書」のバイブルでしたし、「白きたおやかなる峰」「楡家の人々」「酔いどれ舟」などの長編小説は、読書の蜜のような愉悦を教えてくれました。しかし北氏の小説の真骨頂は短編にあるのだと私は思っています。「羽蟻のいる丘」や「夜と霧の隅で」などの短編小説は、小説というものが真に人間の精神の核を震わせ、人間としてあるべき感覚を呼び起こしてくれることを教えてくれました。

私の精神形成に大きな影響を与えてくれた北氏の訃報に触れたとき、私は「自分の血肉の何パーセントかは北杜夫でできているのだ」という感慨を直感的に持ちました。北杜夫の私への影響力は血肉になっていると思えるものなのです。
言うまでもなくこれは精神面での話ですが、イメージとしては身体の幾分かはその人そのものでできていると考えるくらい影響の直接性が実感できるのです。
北氏の影響が具体的にどういう点でと言うのは難しいですが、多分私は北氏の小説から特に人生の指針となるようなコンセプトを読み取ったのではなく、人間という不思議な存在の真実、それは社会や経済やといった現実世界の条件下ではなく、ただ人間として在るその芸術的な感情に触れることだったのだと、今思います。いわば人間存在に宿る直接的で根源的な芸術性を北杜夫の小説から自然に受け取っていたのだと思います。

北杜夫の親友であり同じ時期に、また同じようなスタイルで活躍し、1996年に亡くなった遠藤周作氏も私の血肉の何パーセントかを形成している作家です。
「同じようなスタイル」というのは狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号で書いた「狐狸庵シリーズ」や「ぐうたらシリーズ」などのいわゆるユーモア小説で人気を博しながらも、実はシリアスな小説の中に遠藤氏の本当の小説家としての特質と価値があるという点。それも「沈黙」「イエスの生涯」「死海のほとり」などの長編小説が、読みだすとのめり込まざるを得ないような物語の愉悦に溢れているとともに、実は「アデンまで」「月光のドミナ」「白い人・黄色い人」「海と毒薬」などの短編が、よりじわじわ、ひたひたと読み手の精神に沁みとおってくる小説のすごさを感じさせるものであることなど、とてもよく似ています。

遠藤周作のテーマは人を裁くのではなく許す「母なるキリスト」像でした。人の弱さ、卑屈さを許し包みこむ神の姿をずっと求めていたと思います。それは日本人にとって異教であるキリスト教の遠藤らしい解釈でした。シリアスで超暗いこれらの短編小説に、それでも引き込まれるのは、背徳せざるを得ない人間に対する彼の洞察力によるものでしょうか。当時私自身が「人間のどうしようもない弱さ」をひしひしと感じていて、そこから「どうしたら優しいままで強くなれるのか」が私の大きなテーマだったように思います。弱いがために裏切ってしまう人間を、それでもいいのだよと言って赦し続けた遠藤氏の小説は、自分の弱さをとことん見つめ続けた太宰治とともに、当時の私の思考の在り処を照らしていたのだと思います。

自分の身体が(実は精神ですが)誰から出来上がっているかに思いをめぐらすことは、自分の存在を見つめるとともに、自分が自分だけでできているのではないこと、また自分がその人・ものたちと繋がっていることを強く感じさせるように思えます。私は梶井基次郎の「桜の樹の下には」という小説を思い浮かべます。これはこの小説の内容あるいは本来の要旨とは異なるのですが、「桜の下には屍体が埋まっている」という言葉から、私は桜が美しいのは桜だけでできているのでないというように受け取り、同じように自分は自分ひとりでできているのではない、いろんな人からできている!と勝手に解釈しているのです。
私100%分を誰が、または何が何%ずつで形成しているのでしょうか。
その要素は様々在ります。両親や先祖の遺伝子影響や人からの直接の影響でなく、小説、音楽、美術、映画、思想などから、その全体が100%になるような影響関係を自分で考えるのもまた楽しいものかと思います。

 
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