いくつかの書評&追悼(2017.12-2021.2)

2021年2月28日
会田誠「げいさい」

自身の作品では、美術そのものを疑い、そして物議を醸す作品が多いが、「げいさい」は文学の制度内で実にオーソドックスかつ王道的な小説だった。時空の設定や人物造形なども、美術作品では一ひねりも二ひねりもするのに、気持ち悪いくらい素直。
予備校生当時の自身の実体験であると思わせる(かなりの部分本当にそうであろうが)リアリティを武器に、美術を志すものの心持ちや予備校、受験作品などの細部を描きあげていて、それは納得以外の言葉がないが、経験的・個人的な出来事にかこつけて、実は美術大学、美術予備校(いわゆる研究所)、現代美術、美術批評などの定点的位置を示したいではないかと思えるくらい、客観的に的確に美術というものを捉えていると思った。
私は会田誠のいくつかの作品(というか、結構多くの作品)は好きではないが、このような美術に対する解釈や姿勢を持っていることがわかるので、作品に信頼感は持てる。
そして全体ではこの小説は大いなる恋愛小説として読める。面白かった。

会田誠「げいさい」

2020年8月11日
村上春樹『一人称単数』

それはどこを取っても村上春樹だった。短編集なので「騎士団長殺し」よりも軽いけど、「女のいない男たち」とそんなに変わらない気がする。いつものようにちょっとした奇譚だけど、それが短編だけに、重くなく、言ってみれば爽やかだ。
ともかく面白くは読める。
ちょうどいい程度の謎や問いかけを残し、そのまま空中分解する。人生って不思議だけど、そうした理解できないところで世界と自分の関係があるって、そうかもしれないよねと思わせる。
しかしどこを取っても村上春樹と言うのは褒め言葉だろうか。もうかなり長く村上春樹をやっているような気がする。初期三部作のように、僕の人生に決定的な影響を与えるというようなことはもうないだろうな。そろそろ村上春樹でない村上春樹を期待したいけど、それは無理な注文か。

村上春樹『一人称単数』

2020年8月7日

「劇場」をPrime Video で見てびっくりした。小説は読んでいたから、最後沙希が田舎に帰って終わりだなと思ったらあの展開。 永田の(というのは又吉の)演劇論の多くがカットされていたのは残念だったけど、最後の「屋体崩し(というのか)」は「劇場」を恋愛映画として成立させていたんじゃないかな

「劇場」

2020年7月17日
「あちらにいる鬼」井上荒野

小説家の井上光晴と瀬戸内寂聴の不倫関係を、井上の娘である荒野が描いた小説。時代を追って寂聴と井上の妻の双方の視点から話を進めていて、スリリングだ。
事実を下敷きにしているのは確かだが、これは全くの小説だ。
実際あったというリアリティや、本人しかわからない事実などというものにその小説成立の根拠を頼っていないという点において小説としか呼びようのないものだ。
そして文章はいつものように虚無と諦観が通奏低音のように流れていて、惚れ惚れするくらいうまい。
これは荒野などというとんでもない名前をもらってしまって、またその父親と同じ生業に就いてしまったものの覚悟と矜恃なんだろうな。

「あちらにいる鬼」井上荒野

2020年6月28日
「口笛の歌が聴こえる」嵐山 光三郎

1964年主人公の栄介(嵐山光三郎自身)が大学(國學院大学)3年生時から、1969年平凡社の編集者として活躍するまで。混迷する1960年代末の日本を、次から次へと実在の人物(唐十郎、三島由紀夫、永山則夫など数百名の有名人)と交差しながら自由奔放に駆け抜ける自伝小説。
ともかくすごい。政治に文学に演劇に音楽に美術、酒に喧嘩に恋愛等々どれも命がけで熱くて自由で無責任でヤバイ。私は嵐山より10数才下だが、この時代を駆け抜けた破天荒な若者たちの一人ではあった。この熱さはなんとなく記憶がある。ともかく人間的な時代だった。
ちなみに、登場人物のうち美術関係者は、中西夏之(コンパクトオブジェを7千円で買う)、赤瀬川原平(村松画廊の個展に行く)、池田満寿夫(銅版画を買う)、ジャスパー・ジョーンズ(ポスターを買う)、横尾忠則(太陽の特集で取材)、安西水丸(ニューヨークに行く)、東野芳明、加納光於など

「口笛の歌が聴こえる」嵐山 光三郎

2020年6月3日
「私をくいとめて」綿矢りさ

何気ない日常を送る、30代で一人暮らし、センシティブな女性の心の機微を、瑞々しく、また温かい眼差しで描いた「私をくいとめて」綿矢りさ。60歳過ぎたオッサンとは真反対の主人公だけど、と言うか、だからこそか、楽しめる小説だった。

「勝手にふるえてろ」綿矢りさ

こちらはいつもの綿矢の毒が結構効いている。何気ないに日常に狂気が走る。映画では松岡茉優が好演していた。

「勝手にふるえてろ」綿矢りさ

2020年5月29日
「人間」又吉直樹

「人間」(又吉直樹)は三部作になっていて、それぞれが独立した完成度の高い小説として成立する。一、二部は表現者を目指す自意識過剰な若者たちが、グズグズと人間や世界、芸術について思弁的に語り合いながら、ある種の挫折に帰結する物語。
「火花」「劇場」と設定や文体、コンセントは同根だと思うが、時空が前二作よりかなり妖しくなっていて良かった。
第三部は主人公の沖縄の両親、特に父親の話。これは一、二部が登場人物に語らせることによって小説を構築しているのに対して、ほとんど父親の行動だけを通して原初的、土着的生と死を伝えていて、より小説的エネルギーに富んでいる。面白かった。こんな表現も出来るんだ。

「人間」又吉直樹

2020年4月27日
「パック・イン・ミュージック」「ぴったしカン・カン」…小島一慶さん死去

パック・イン・ミュージックでは野沢那智、白石冬美、愛川欽也ももういない。「ヤングミュージック1010」でアシスタントのsophomore(当時は何のことか分からなかった)リリー・チェンの声がかわいかった。レターメンのSealed With A Kissをよく聴いた。

 

2019年2月20日
「ここ過ぎて」瀬戸内寂聴

瀬戸内寂聴の「ここ過ぎて」は北原白秋の2番目の妻、章子の話だが、それに時々詩人の山本太郎が出てくる。昔好きだった山本太郎は白秋の妹、家子の息子だった(父親は山本鼎)のか!と思っていると、今日たまたま読み直していた高野悦子の「二十歳の原点」の中に、彼女が自殺する2日前の日記で、「山本太郎詩集が私を招いている。」と書いているのを発見。そしてそこからの記憶で、高校3年時、愛読していた旺文社の「蛍雪時代」のある号で、山本太郎が選者をしていた「高校生詩壇」の第3席に、美術部の親友の名前を見た時の何とも言えない心持ちを思い出してしまった。

「ここ過ぎて」瀬戸内寂聴

2018年8月20日
「ビニール傘」岸政彦

社会学者、「断片的なものの社会学」著者の小説。
短いのですぐに読めるが、何度読んでもそこがどこなのかも、登場人物が何人いるのかもわからない。人や時空の関係性があいまいで、結びつかないのだ。それが、最後まで読んでもネタ晴らしのようにどこかに収束するということもない。わからないまま終わるが、これは作者が意図的にやっていることで、そのまま読むのが良いのだ。どうやらこの作者は、「これはこういうことだ」と断定する(あるいは結論付ける)ことを徹底的に嫌う人だ。
断片を繋ぎ合わせたものだけが世界だという感覚-それはどこへも収束しないのだ。社会学は科学である限り、ある種の普遍性、一般性へと人間の行動を還元化していくものではないのかとも思うのだが、この人の態度はその対極にあるように思える。分析を拒む社会学者というのも面白い。

 

2018年8月19日
「短歌の友人」穂村弘

生協にサイン本があったので思わず買ってしまった。現代短歌界の旗手、バリバリの歌人が現代短歌を評すること、それは評論家によるそれでもなければ、自歌の解説でもない。その両方を踏まえた上で、自省的に全体像を捉える目がなければできないことで、それが彼の場合ものすごく際どくまたダイナミックでそれがこの評論の魅力だ。一行の文章、一首の引用も彼にとって命がけの行為である。その全部が「お前はどうなんだ」という問いを背負っている。その責任を持ちながら、これだけ短歌の芸術性と本質的な意義の上で、持論が展開できることが彼の歌人としての高い資質を感じさせる。 それにしても、穂村の評論を読む限り、良くも悪くも世界と個が分断され、取り付く島のない無重力的な状況が、短歌界を覆っているのがひしひしと感じられ、その中での破れかぶれ的現代短歌スタイルは、人間の悲惨さを超えてある種カタルシスを覚える。

「短歌の友人」 穂村弘

2018年6月11日
「苦役列車」西村賢太

日雇いの話である。どうしようもなく自堕落な日常、面白い展開があるわけでもなく、そこからヒューマニティや概念化できる世界観も生まれない。しかし、読んでいてなんとも面白い。 太宰もびっくりの、いつまでたっても句点を打たない長々としたセンテンス……。
この小説を面白くしているのは、自虐的ながらも飄々としたユーモアのある、この狂言回しのような文体である。現代の私小説とか言われているが、透徹したリアリズムとはあまり縁がない。いくら実生活を基にしていると言っても、小説であるからにはイメージの世界でありその点でセクハラ的だとか、不快だとかいう倫理的な読み方は間違っている(女性がどう感じるかはわからないけど)。日常を描いていても、読者体験としては脱日常であるのが文学。 そんな感じだから、後半めでたく友人ができて会話文が多くなると、面白さが半減したような気がした。

 

2018年5月18日
「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリアンス」滝口悠生

東北への原付バイク旅、高校時代の美術準備室、絶対だった房子の存在、ジミヘンの真似して焼いたギター・・・・本当にそれらはあったのか。こうであったかも知れない記憶、なったかもかもしれない記憶。過去のそれらの出来事は今の自分にどう結びついているのか・・・・
過去と現在が互いに影響を与え合い、なんとも不確かだがそれが愛しむべき人生の時間なのだ。だけど最後にそれが宙に浮いたまま、でも何となくそうなんだよなと納得して終わるのは難しい。その部分では「死んでいない者」のほうがよくできているのかも。

 

2018年5月11日
「死んでいない者」滝口悠生

故人の子孫一族郎党合わせて27人も出てきて、家系図を書きながら読まないと誰が誰だか分からない。死者の通夜一夜だけの物語。それぞれが普段共有してない日常と価値観を持ちつつ、だけどそれぞれの色々な思いや事情が絡み合って、個と集団、生と死の堺がぼやけていくのが、なんとない文章の中からじわじわ伝わってくる。 平凡な、記憶にも残らないようなこと、本人でさえも忘れてしまうようなことを、まさにそれ故に人間の真相として、この人はどうしてこれだけうまく書けるのだろう。 何でもないから何ともすごい。そして文章がとても優しい。

 

2018年4月30日
藤枝晃雄氏死去

厳格なフォーマリズムの批評家で、その立場からの攻撃的な論調や文体は、そこまで言わなくても、と思うくらい徹底していて怖いほどだった。読み物としてユニークな東野芳明と対照的。「現代美術の展開」(1977)もものすごく難解で、ラインを引きつつ何度も読み返した。懐かしい。

「現代美術の展開」藤枝晃雄

2018年4月22日
「百年泥」石井遊佳

洪水の後発生した泥から掘り上げられた数々のモノから私の記憶は蘇り、またひょんと他人の思い出に入りこむ。それは次第にいつのことかわからなくなり、最後は誰の記憶かも判然としなくなる。そして様々な記憶の総体として、またすうっと橋の上で泥を見ている自分に戻る。読書の愉悦。

 

2018年4月7日
「おらおらでひとりいぐも」若竹千佐子

こんなすごいとは思わなかった。島田雅彦の選評の通り、「自分を構成する要素としてのコトバ、家族、自然、時間などを巡る考察」であり、思弁的かつセンチメンタルな「自分探し」の物語。論理的で暖かい。

 

2018年3月12日
「マチネの終わりに」平野啓一郎

美男美女、才媛と才能ある芸術家。そんな取り合わせは好みではなかったけど、しかし、思わぬことで関係が崩壊した(結構ベタだけど)後の二人の心情と行動は、人間の精神性の理想とリアリティが、硬質な叙述で見事に表現されていた。最後の数ページは鳥肌が立った。

 

2017年12月3日
「ザ・フォーク・クルセダーズ」はしだのりひこさん死去

フォーク・クルセイダースは時代の精神を体現しているグループだった。「悲しくてやりきれない」「イムジン河」。解散後はシューベルツ時代の「風」。中学生だった。


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