ONE MORE CUP OF COFFEE [上]
昔々、もう30年も前の話だが、僕が大学生になってアパート暮らしを始めた頃のことだ。先輩の紹介で池袋にある喫茶店を知った。「C」という名曲喫茶だった。僕はアパートから池袋に出てそこから地下鉄で学校まで通っていたが、「C」は池袋駅に行く途中にあった。
「C」はかなり古い、趣のある建物で、内部は暗く複雑な構造になっていた。地下があり、中二階や三階まであった。中にはどこを迦ったらたどりつけるのかわからないような部屋もあった。僕はよくその中二階を利用した。そこはいわゆる鑑賞室で、テーブルとイスが皆同じ向きに縦五列、横四列、計二十脚ほど並んでいた。イスはゆったりとした一人用のレザーのソファで、一人で来た客がそのソファに深々と座り、思い思いに音楽を楽しんでいた。
濃く酸味の強いコーヒーを出す店で、高級ではなかったが、コーヒーを常飲しだした頃だった僕にはとてもおいしく感じられた。今でもコーヒーは苦味よりも酸味の強いモカのようなもののほうが好きで、コーヒーの酸味は他のどの飲食物のどの味よりも貴重なものに思えてならないのだが、それはここに行った回数が多かったためだろうと思う。
当時、一杯150円のコーヒーを飲みながら、僕はそのソファで一人もの思いにふけり、本を読み、日記をつけ、画集をながめ、モーツアルトを聞き(僕のリクエストはいつもモーツアルトのコンチェルトだった。もっともそれがかかるまでには二時間ほど待たねばならなかったが)、ときどき居眠りをし、試験前には勉強もした。僕は大学やバイトからの帰りに「C」に立ち寄り11時の閉店までいることが多かった。もちろん大学の友人やガールフレンドと行くこともあったが、それも最初のうちだけで、次第に一人で行く場所になった。友人となら他にいくらでもしゃれた喫茶店はあったし、ここは自分一人の場所としてあまり他人と入りたくないという気持ちが働いた。「C」は僕自身の場所であり、他に自分の居場所と呼べるものはなかった。
当時、僕は四畳半のアパートに住んでいたが、がらんとして殺風景なその部屋に長くいると圧迫感で息がつまりそうになり、僕は自分の部屋が好きになれなかった。隣の部屋には長野の工専をでて何年か浪人したのちN大の文学部に入った年齢不詳の大学生がいて、彼は自活するために一晩おきに新宿のビルの夜警をし、それがない日は皿洗いのバイトをしていた。彼は部屋にいるときは必ず難しい本を読んでいて、僕が窒息しそうな顔をして行くと絶対に役に立ちそうもないその内容を解説してくれたが、バイトでいないことのほうが多く、彼がいない時には僕は勝手に大きなレコードプレーヤーとビートルズのレコードしかない彼の部屋に入りこみ、4年前の解散のときに発表された最後の曲、「ア ロング アンド ワインディング ロード」を繰り返し聞いた。
前の部屋には大阪出身でW大のロシア文学科に六年も在籍している、これもまたかなり老けた大学生がいた。案の定、彼の部屋の本棚にはマルクスの「資本論」を始めとする著作集がずらりと並んでいた。よく三人で話をしたが、N大生とW大生はマルクス・レーニン主義やその他、諸々の難しいことについて熱っぽく語り合い、僕はただタバコをふかしながら聞いているだけだった。二人の話は僕にはどこか別世界のことのように聞こえた。当時、僕には回りの世界が僕自身とどう関わっているのかよくつかめなかった。まるで地面から15cmほどの高さの空中を歩いているような気分で毎日を送っていた。二人は僕をほとんど無視して話をしていたが、そのほうが僕も気が楽だったし、そもそも僕は何も言うべき言葉をもち合わせていなかったのだ。
W大生にはその年芸術系の大学に入学した許嫁(いいなづけ)がいた。彼はその子の家庭教師をしていて、彼女が大学に入ると同時に婚約したということだった。僕はソビエト社会主義と学生にして十八歳のいいなづけを持つことの関連がよくわからなかったが、ときどき遊びに来るその婚約者はなかなかチャーミングだった。
僕は貧しいN大生に池袋にあるものすごく安く品数の豊富な定食屋(そこではのりのつくだ煮の「ボトルキープ」ができた。今では全国展開をする一大飲食店になっている)を紹介するついでに、「C」も教えたりした。愛すべき隣人に恵まれたとはいえ、アパートの部屋は僕にとってあまり気分のよい場所ではなかった。三年の間、近くのお菓子屋−卒業のころにはコンビニエンスストアになったが−でバイトをしていて、そこで店を閉め、売り上げを勘定したあと店の人と麻雀をしてずるずるとそのまま泊ってしまい、そこから学校に行くことも多かった。
大学にいても僕は何をやったらよいのかわからない状態だった。一応芸術学科・絵画専攻に籍を置いていたので、午前中は毎日モデル実習があったが、登校するのはだいたい実習が終わる昼ごろだった。僕はモデルのいなくなったモデル台に寝ころがり、先輩たちとトランプか花札をやって、そのあと雀荘か喫茶店に行った。僕たちの多くはモデルを使った実習に意味を見いだしてはいなかった。
20世紀に入ってからのダダイズムと1960年代のポップアートという二つの芸術崩壊運動の洗礼を受けてしまった僕たちは、おいしいところをとられてしまったケーキを見つめる子供のように、ただ茫然と立ちすくむしかなかった。新しい試みは何もかもちょっと前の人々がしつくし、僕たちに残されたのはそのざわめきの余韻だけのような気がして、苦々しい思いでいっぱいだった。60年代の乱痴気さわぎの後におとずれた70年代の沈黙は、いつも重苦しく僕たちの上にのしかかりいらだたせた。あきもせずモデル実習をさせる大学側に腹を立てていたが、かといって自分の作品を制作するとなると、井戸の奥底をのぞきこむような絶望感を感じた。
絵画にはもう未来がないといわれ始めた時代だった。友人の何人かは、版画や立体作品に転向していった。中には袋小路に追いつめられたねずみのごとく、キャンバスにペンキをぶちまけたり、油を流して火をつけ天井を焦がしたりしていた者もいたが、そんなものには何の新鮮味もなかった。僕は自分の描くべきものが在学中は見いだせなかった。絵を描くということは、僕にとって生活の中の単なる一部ではなかった。それは生きることと同義であり、絵が描けなければ生きている意味などなかった。その実存的重さに匹敵するものは恋愛問題以外にはなかった。何をしていても絵(と女性)のことが頭の中にあり、絵が描けない僕を苛み憂うつにした。「C」でタバコをふかす日々が続いた。「C」で一人になると、やっと落ち着いて自分自身の問題と制作の問題について思いをめぐらすことができた。
当然、授業にもほとんど出なかった。ある授業などは最初の1回出席した後は最後のテストのときしかでなかった。そのとき教授の髪がやけに薄くなったのを見て1年の長さを感じたりしたものだった。それでもどうにか単位はほとんど取れた。それはカンニングやもっとひどい不正行為がわりと自由にできたからだ。僕たちは女子のノートをコピーし机の下に忍ばせ、フランス語の辞書の内側に訳を書き、ひどいときには監督のいなくなったすきに提出された答案を写したりした。
こんな、とても他の大学では考えられないことができたのも理由があった。僕たちが入学した頃−70年代前半−は、60年代に吹き荒れた学生運動の嵐が東大安田講堂バリ封や佐藤訪米阻止闘争などを境に勢いを失いつつあった。僕たちの大学も闘争で入試が中止されたりしたこともあったが、最後にして最大なものは大学移転阻止闘争だった。たび重なる紛争に業を煮やした政府が、新大学構想として紛争のない(できない)、つまり大学自治のない大学設立をかかげ、そのやり玉として僕たちの大学があげられていた。その移転阻止闘争も、僕が入学した年の春、法案が国会を通りあえなくつぶされた。僕は入学すると同時に何が何だかわからないままデモに加わり、国会議事堂の囲りを回ったあと、その闘争の終篤に立ち合った。
僕たちの大学は、「廃校」という、大学としては実にめずらしい運命をたどることになった。春がめぐって来ても新入生が入って来なくなった。年ごとに校内には学生が少なくなっていった。校舎はひっそりとして、まるで定年退職を迎え、その身をもてあました老人のようなわびしさを漂わせていた。僕たち在校生は学校祭でバーをやり、パフォーマンスをやり、精一杯乱痴気さわぎをする以外はどうすることもできなかった。一人一人が喪失感をいだいていた。それはこんな状況に身を置いた人間以外わかり得ない喪失感だった。僕たちはその大学の最終学生として廃校と同時に卒業した。
僕は四年閻の大学生活を、抜け殻になってしまったような校舎で、60年代のざわめきの残照のようなせつなさとやり場のなさを背負った時代の中で、かなり健気(けなげ)に悩み、飲み、遊び、麻雀ではたいてい負け、バイトにあけくれ、何度も禁煙し、女の子とも人並につき合い、そして絶対的孤独の中で送った。
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どうしたんですか?回顧録なんかアップして。
ついでに次は(中)にして(下)では明るい未来の話を聞かせて下さい。
ところでイ・ブルさんの良さは全く分からなかったです。
彼女の作品を観て「盆栽」を思い浮かべたのですが、盆栽の、あの小さな樹の中に凝縮された時間とか空間の密度と比べると、イ・ブルさんの作品は少し希薄じゃないの?と、美的センスの無い私は感じたのでした。
そうですか。
まぁ盆栽の良さがわかっただけでもいいと思って。