ニューヨーク滞在日記(その2)
前回MoMAの企画展示について書きましたが、最上級のマスターピースが、次から次へと出てくる常設展示も相変わらずすごいものでした(写真①、写真②)。しかもその中で「ピカソの版画」とか「モネの睡蓮」、「The Modern Myth: 現代のDrawing 」などの小企画をしていて、その作品がまた宝物のように輝いているものばかり(写真③ )。ホント溜息ものです。
しかし、展示がなんとなく窮屈な感じがしたのも事実でした。帰ってからホストファミリーのDr. Petra Chu と話していたら、彼女も今のMoMAの展示室はあまり感心しないという意味のことを言っていて、私の感じ方も観客が多かったためだけではないのではないかと思いました。そう言えばこのHPのエッセイの「NEW YORK HUNGING AROUND」でも触れているのですが、以前のMoMAのマティスの作品が並んだ部屋は、本当に夢のような空間でした。たしかソファもあったと思います。今回はそんな優雅さを感じられなかったのは残念でした(写真④)。
写真④学芸員によるマティス作品の説明を聞く小学生
それに対してP.S.1(正確にはP.S.1 Contemporary Art Center)の展示空間はとても素敵でした。P.S.1とはPublic School 1のことで、廃校になった公立第1小学校の校舎を再利用して作ったアート・センターです(写真⑤、写真⑥)。この小学校の建物の残り部分と展示空間として構築したスペースがとてもマッチしていて、心地よい空間が生まれています。気取っていないのに(チケット売り場にある黒板に、展示説明図がチョークで書かれている!)品もセンスも清潔さもあるのはどうしてだろう。この空間にいる間ずっと気持がいいという感じでかなり気に入りました。
入るとすぐレアンドロ・エルリッヒの「スイミング・プール」があったり、部屋の隅にフェリックス・ゴンザレス=トレスの「偽薬」がさりげなくあるのも憎い(写真⑦、写真⑧)。
企画は1階が「Between Spaces」2階が「1969」、3階が「100 Years」と、階ごとに分かれていて、それぞれにきちんとしたコンセプトを感じました。もちろんアート・センターなので企画がダメなはずはないですが、P.S.1は「間違いがない」ってとこでしょうか。例えば「100 Years」はこの100年間に生まれたパフォーマンス美術をビデオ、写真、音楽、文献で歴史的に検証したもので、そのビデオ資料の多さと網羅している範囲の広さに驚きました。
P.S.1はクイーンズにありますが、地下鉄でイースト・リバーを渡り地上に出た時のクイーンズの風景も、マンハッタンと違ってまたいいです(写真⑨)。
写真⑤P.S.1
写真⑥P.S.1
写真⑦裏側からの「スイミング・プール」
写真⑧「偽薬」
写真⑨落書きだらけのクイーンズの建物
またまたそれに対して「New Museum」は私にはそれほどおもしろく感じられませんでした。
New Museum はチャイナタウンにほど近いローアー・イースト・サイドに2007年に建てられた新しい美術館で、キューブを少しずつずらして重ねたような外観は異彩を放っています(写真⑩)。日本人のSANAA(妹島和代+西沢立衛)の建築によるものですが、彼らのロンドン、サーペンタインギャラリーのパビリオンも昨年見てきたばかりで、彼らの世界的な活躍は日本人としてはうれしいものです。
「Skin Fruit: Selections from the Dakis Joannou Collection」という企画でしたが、これはDakis Joannouという人のコレクションからジェフ・クーンズがセレクションをしたものでした(先ほどのSANAAのパビリオンを野外展示していたサーペンタインギャラリーがジェフ・クーンズ展をやっていたので、これはまぁ個人的にですが、おもしろい符合でした)。
展示は各階がかなり広いワンフロアーになっていて、多くの作品が各フロアーに所狭しと展示されています(写真⑪)。
ほとんどが90年代の「アブジェクション=おぞましいもの」と言われている作品でした
(その走りのジェフ・クーンズがキューレイションしたものなのでかなり徹底して「おぞまし」かった)。
松井みどりが名著「Art in a New World」で「(今までの理性的な社会観生活規範から排除されてきた)子供っぽいもの、理性では割り切れないもの」「抑圧を受けながら、抑圧されればされるほど強く、人間にとってそれが避けられないものであることをあらわにしてくる、自分(文明)の中の『闇』の部分」と言っていることを体現している作品ばかりでした。
具体的にはキキ・スミス、ロバート・ゴーバー、マイク・ケリー、マッシュ・バーニー、ポール・マッカーシーなどです。
「未熟=幼児性」「死」「不安や恐怖」「体液や吐瀉物」「エロ・グロ」などがそれこそ垂れ流しになっているような作品をこれだけ大量にみるのはかなりきついことではあります。
結構頑張っているユニークな美術館だとは思うのですが、何かもう一つ乗り切れませんでした。作品そのものが好きではないということもあると思いますが、何と言うか空間の異化の有り様がイマイチこちらに伝わってこないような感じもしました。
写真⑩New Museum
写真⑪New Museum会場入り口
グッゲンハイム美術館もいくつかの企画をしていました(写真⑫)。
「アーニッシュ・カプーア」は一部屋に巨大な卵型の鉄のオブジェでした。部屋に入りきらない感じが、測りきれないものを存在させるカプーアらしい。
大きな企画は「HUNTED」と題した現代写真、ビデオ、パフォーマンスの展覧会でした。
「Contemporary Photography/Video/Performance」というサブタイトルがついていて、P.S.1の「100 Years」と若干かぶる感じですが、こちらは現代の写真やビデオが過去や歴史に囚われているという視点からの展示だったようです。
アンディ・ウォーホルから始まって、ラウシェンバーグ、ベッヒャー夫妻、シェリー・レビーン、バーバラ・クルーガー、ボルタンスキー、杉本博、シンディ・シャーマンなどの有名な作品をへて、例の展示空間をグルグル回りながら(写真⑬)、主に2000年代の写真、ビデオなど−アブラモビッチやフェリックス・ゴンザレス=トレスはどこに行ってもありました−を見ました。確かに質の良いものばかりでしたが、今の美術がビデオ、パフォーマンス中心になっていることは私には不満に思えるところです。
写真⑫グッゲンハイム美術館
写真⑬ グッゲンハイム美術館/グルグル展示
次にホイットニー・ミュージアムですが、行く前は一番期待していました。ちょうどホイットニー・ビエンナーレの時期だったからです(写真⑭、写真⑮)。2年に1度開かれる(Biennialだから当たり前か)このショウは日本のガイドブックにも紹介されているくらい有名なものです。
でもかなり期待外れでした。なんだかどれもおもしろくない。みみっちいというか、志が低い気がしてがっかりでした(写真⑯、写真⑰)。こんな作品が将来残っていくだろうかと心配になるほどでしたが、その点でもPetraと意見が合って、彼女も「そんなに騒ぐほどのことはないわよ」と言っていました。
その点5階で行われていた、「Collecting Biennial」という企画は過去のビエンナーレからコレクションしたものを展示していましたが、こちらはかなりガツンと手ごたえを感じました。ヤッパリ良いものは残るのだな。
私の好きなサイ・トゥンブリー、フィリップ・ガストン、リチャード・リーベンコーンばかりでなく、ロバート・ゴーバー、マイク・ケリー、マッシュ・バーニー、ブルース・ナウマンなどもやけに確かなものとして見られました。そのくらいビエンナーレの方は不確かだったということ?
(写真⑭)ホイットニー美術館
(写真⑮)ホイットニー美術館
写真⑯作品(ホイットニー・ビエンナーレ)
写真⑰作品(ホイットニー・ビエンナーレ)
またまた長くなりました。続きはまた次回に。
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