東京近郊美術館巡り(2012.3.25-3.29)

みなとみらい
横浜大桟橋から「みなとみらい」を望む

横浜での私自身のグループ展(CAF.N横浜展)の展示やレセプション出席のついでに、東京近郊の美術館を精力的に巡ったのでレポートします。
(「CAF.N横浜」展については[exhibition]を、私の作品については[gallery]をご覧ください)
紹介する展覧会の作品撮影はほとんど禁止されているので、撮って来られませんでしたが、まだ開催中の展覧会についてはそれぞれのHPを参照してください。

○「抽象と形態」展(DIC川村記念美術館)

川村記念美術館の収蔵作品と現代絵画作家の類似点をもとに構成された展覧会。例えばモランディと角田純、サム・フランシスとフランシス真悟などがペアになって紹介されています。サム・フランシスとフランシス真悟は親子であるという繋がり、モランディと角田純は、どうしてだか私にはまったくわかりませんが、「ふたりの作品は互いの深部において共鳴しあう何ものかがあると思われる。」(『抽象と形態展』図録)からだそうです。

DIC川村記念美術館
DIC川村記念美術館

その他も含めて収蔵作品と招待作家のつながりが全く理解できない。企画としてはかなりずっこけていると思いました。それが笑っていられないのは、野沢二郎作品の形象が水面を思わせるとして、モネとカップリングされていたりするからです。野沢の作品はシルクスクリーンのスキージーで油彩絵具を基底材に幾重にも乗せていますが、その物質としての油絵具が強靭な表面としてあるにもかかわらず、空間としてとてつもない奥深さを湛えている点が魅力であるのに、それを「水面」としてだけ捕えると、非常に概念的でつまらないものになってしまう。それをわざわざ誘うような企画はいかがなものかと。

しかし、出品している作家はみな素晴らしいです。上記の角田、野沢、フランシス真悟の他に、赤塚祐二、吉川民仁、五木田智央など。特に赤塚と吉川は私が90年代からずっと興味を持って見てきた作家で、3月25日はその両人に野沢(野沢は私の大学の後輩で、この展覧会の招待状も野沢からいただいていました)を加えた3人のギャラリートークがあったので、意気込んで遠く佐倉まで足を運んだ次第でした。

赤塚は馴染みのある90年代の「canary」シリーズが半分、風景的な形象が見られる半抽象の最近作が半分の構成。「canary」シリーズは90年代に「絵画の神があったとして、それが何を思ったか、赤塚祐二という一個の人間を経路として選び、地上に顔をのぞかせてみせたのだ。」(「形象のはざまに」展図録 K.N筆 1992)と言わしめた「絵画の中の絵画(絵画のホンマもん)」です。いわゆる絵画再生の希望ともなった作品群として私などは密かにまた熱狂的に見ていました。それが最近作では「縁取り」のされた物体が宙に舞っている風景のような、なんだか胡散臭さのある作品に変貌していたのには驚きました。この嘘っぽさは赤塚自身が計算しているもので「ここではない、どこか別のところに本当の世界があるのではないかと思わせる」作品だと・・・・。そう言われれば、見ていて何でこうなったのだろうと思うのと、なんとなく惹かれてしまうものが混在する理由がわかったような気がしました。この赤塚の変貌は私にジャスパー・ジョーンズを思い起こさせました。あの当時の絵画の真実のあり方と思える「ターゲット」や「フラッグ」のあと、やはり「縁取り」のある人型などが登場したジョーンズの変貌と似てるのでは。

吉川は大学院生時代から最近作までの数点を出品。(これらのスタイルの変貌がちょっと見難い感じもしました。)吉川も、90年代にVOCA展のカタログなどで「R.バルトふうにいうなら、画家(吉川)の震える感覚と身体は、その官能的代替物である作品を介し、見る者を誘惑し、熱狂させるのである。」(菅原教夫 1994)と言われた、その絵画の魅力に私はずっと参っていたものです。面白いのは赤塚が「何かに見たてるような形象を描いていく」と言っていたのに対して、吉川は「形象になるのは拒否していく」と正反対のことを言っていたことです。私は吉川派ですが。

野沢も含め3人と、短い時間ではありますが、ギャラリートーク後に懇談できたのは楽しい時間でした。
http://kawamura-museum.dic.co.jp/index.html

川村美術館前の池にあるシャピロの作品
川村美術館前の池にあるシャピロの作品

○セザンヌ展(国立新美術館)

国立新美術館外観
国立新美術館外観

セザンヌ展には3月28日の初日に行ってしまいました。混むかなと思って10時ちょうど
くらいに行きましたが、それほどでもなかったです。同じ新美術館で2010年10月にあった「ゴッホ」展ではその混雑ぶりに辟易しましたが。

そのゴッホ展で見た「ゴーギャンの椅子」「アマリリス」「アルルの寝室」などがとてもとても懐かしかったように、今回のセザンヌ展での「首吊りの家」「赤い肘掛け椅子のセザンヌ夫人」「リンゴとオレンジ」「青い花瓶」などの作品を目にしたときは、自分なりに深い感慨がありました。
これらの作品はどれもが、私が高校生の頃熊谷の市立図書館から画集を一冊ずつ借りて来ては、ひとり夜な夜な眺めていた忘れがたいものです。ゴッホ、セザンヌをはじめとする近代画家たちの作品が、私を絵画の世界に連れて行ってくれました。あの頃絵画から感じたヒューマニックな世界観、世界を構築する造形性、生きることの謳歌とともに人間のどうにもならない悲哀・・・・。あの深い感動がなかったら絵画とともにした私の人生はなかったはずです。

大学進学後、現代の絵画制作コンセプトを摸索する中で、近代的自我は否定しなければならないものとなり、近代からの脱却が自分の課題になりました。あれから30年。色々な道をぐるぐる行きつ戻りつしてきた気がしますが、その踏み台としてずっと近代美術を見てきました。今はもう近代絵画を深く追求して見ることはなくなっていたのですが、こうして改めて近代の代表的絵画を目にすると、自分の原点はここにあるのだなと思います。深い感動を得ること、それが生きる原動力だと改めて思い起こさせてくれたセザンヌ展でした。
http://cezanne.exhn.jp/

○野田裕示展(国立新美術館)

国立新美術館内部
国立新美術館内部

同じ新美術館で野田裕示展も開催されていました。実は私にとってはこちらの方がお目当てといってもいいかもしれません。野田裕示はかなり前から好きで、彼の1995年の和歌山県立美術館での個展(「野田裕示「絵画の原風景」展)の時に、実際に見られませんでしたが図録を取り寄せています。彼は前述の赤塚祐二、吉川民仁などの一世代上の作家で、80年代から精力的に作品を発表して、絵画のあり方を巡る論議の中では辰野登恵子や堀浩哉などとともによく名前があがっていました。彼の絵画の課題は、描くことと描かざること、つまり自我と自然との葛藤が彼の制作方法−凸凹のある支持体を画布で包みこみ、そこからオートマチックで力強い形態を発生させる方法−として現れ、これらの試行は絵画に強靭な骨格を与えていました。

その制作方法をビデオで紹介していました(去年の制作なので90年代当時とは異なる部分もありますが)。私が思っていたのとほとんど違わなかったので満足(笑)しました。
今回、1995年以降2011年までの作品に飛躍があるかどうか疑問もありますが、野田の体質そのものがかなり気に入っている私にとっては見応えのあるスケールの大きな展覧会でした。

ミッドタウン前の5周年記念オブジェ
ミッドタウン前の5周年記念オブジェ

○イ・ブル(LEE BUL)「私からあなたへ、私たちだけに」展(森美術館)

六本木ヒルズ、ルイーズ・ブルジョアのママン
六本木ヒルズ、ルイーズ・ブルジョアのママン

以前、いつだったか覚えていませんが、イ・ブルを最初に見たのは大原美術館の児島虎児郎記念館でした。あの時もすごさを感じましたが、今回の展示はアートの大きさと可能性を感じさせてくれる素晴らしいものだと思います。
私自身、イ・ブルの創りだす「サイボーグ」や「モンスター」などの形態そのものに感心はしないのですが、それにしてもイ・ブルはスケールの大きなアーティストであることは否定できません。社会・政治学、自然科学、コンピューター、民俗学・歴史など、人類の活動を大きく包括し、そしてそれをインスタレーション、パフォーマンス、建築的立体、絵画など様々なメディアを通して、身体と環境空間が関わる作品として提示できる作家はそう多くはありません。(以前この森美術館で見たアイ・ウェイウェイもそのひとりだと思います。)その才能はやはり素晴らしいとしか言えません。見た目は普通の韓国のおばちゃんなのに、どこにあのパワーがあるのやら。かつては視覚体験だけが美術の捉え方でしたが、イ・ブルのように美術作品は概念的な思考や情報や物語が様々なメディアにより体験できる。私たちは身体とともに総合的にそれらを体験する、そういった美術の充実した現れをイ・ブルに典型的に見ることができます。森美術館の隣でやっている「ONE PIECE」展ばかり人が入っていますが、こちらを見て欲しいなぁ。
http://www.mori.art.museum/contents/leebul/index.html

森タワー53階からの眺め
森タワー53階からの眺め

○VOCA展(上野の森美術館)

今年もVOCA展に行ってしまいました。最近いつもだいたい同じだし、今の矮小化された作品を、いつもいらだちを覚えながら見るのはつらい部分もあるのだけど。しかし、最近の平面作品がこうなってしまって久しいからには、さきの吉川や赤塚がいた時代は良かったなどと懐古している場合でもないかもしれません。なんと1994年のVOCAには赤塚、吉川、小林正人、丸山直文という現代絵画4羽ガラス(カラスにしてしまってはまずいか)の他に、福田美蘭、児玉靖枝、村上隆、岡崎乾二郎、大竹伸朗、佐川晃司、山口啓介、吉沢美香・・・・という多彩なメンバーがいたのでした。
それはともかく、今回のVOCA賞、鈴木亜星の「絵が見る世界11_3」は、いわゆる最近の具象っぽい絵画ですが、もちろんリアリズムでもなく、物語でもなく、観念でもなく・・・・鑑賞者をどこか他の場所に連れていくその吸引力と言うか、それが不穏で空虚、自己疎外的で生気がないといった負の力なのだけど、かなりのすごいを感じましたし、確かにこれがある種の絶望にさいなまれている現代の作家の表現なのかもしれないと思いました。
http://www.ueno-mori.org/voca/2012/visual-index.html

○ジャクソン・ポロック展(東京国立近代美術館)

東京国立近代美術館外観
東京国立近代美術館外観

国立近代美術館ではポロックをやっていました。
ポロックの44年の人生全体を4期に分けてその作風の変遷を紹介していました。ポロックと言えばポーリングを施したオールオーバーな大画面の作品と言うことになりますが、その「第3期1947-1950年 成熟期 革新の時」と題された代表作品には興味が向きませんでした。まぁ前から良く見ているというのもありますし、かなり無我の境地に陥った均一な画面は、良くできているだけにあまり面白くなかったです。(ちなみにキャプションなどでポロックの技法を「ポーリング(流し込み)」といういい方を使っていました。良く言われる「ドリッピング(垂らしこみ)」はほとんど使われていませんでした。確かにあまりポタポタ垂らしてはいない)
それよりもそのポーリングスタイルが完成する直前の「第2期1942-1946 形成期 モダンアートへの参入」の、「トーテム・レッスン2(1945)」の何とも言えないイメージ(ピカソとミロとシュールレアリズムとインディアンの影響がないまぜになった感じ)と、「第4期 1951-1956 後期・晩期 苦悩の中で」のポーリングによって顔のような形象が現れる「ナンバー2(1952)」などが面白かったです。

ポロックのアトリエ再現
ポロックのアトリエ再現

特に晩年の衰退期として評判が落ちた時期の、ローキャンバスにスティニングに近い黒のエナメルで描かれた作品は、ゾクゾクするものがあります。エグイと言うのか、またイメージを出現させた彼の苦悩に共感できる感じがします。あまり純粋な完成より、やむを得ず出て来てしまった不純な人間臭さにポロックを強く感じました。
またエド・ハリス監督・主演(ポロックそっくり)の「ポロック 2人だけのアトリエ」が見たくなりました。
http://www.momat.go.jp/Honkan/jackson_pollock_2012/index.html

平田晃久 パヴィリオン・プロジェクト(現代美術館)
平田晃久 パヴィリオン・プロジェクト(現代美術館)

○靉嘔「ふたたび虹のかなたに」展(東京都現代美術館)

現代美術館内 靉嘔のレインボー作品
現代美術館内 靉嘔のレインボー作品

東京現代美術館では、靉嘔「ふたたび虹のかなたに」展と「田中敦子−アート・オブコネクティング」を開催していました。
靉嘔の展覧会は大規模で、彼の魅力をかなり伝えていたと思います。ともかくあの明るさと希望が単なる楽天家としての底の浅いものではなく、人類と芸術全体を鑑みることによって導き出されたものであることや、芸術として懐の深さと包括的な豊かさ感じました。
膨大な絵画、インスタレーションとともに初期の「環境作品」に込める思いは、それがユーモラスなものであるが故に、さらに彼の芸術に対する真摯な思いと必死さが伝わってきました。そして確かに「靉嘔がすべてのものをレインボーカラーで埋め尽くす観念に思い当たった時、彼は世界を手に入れたと思った」のだろうなぁと納得しました。

靉嘔のレインボー作品の中の私
靉嘔のレインボー作品の中の私

田中敦子展もついでに見たのですが、こちらはまったく興味を引かない。あの電球と電線の抽象化である丸と線の絵画作品は、私の感覚では絵画としての質を備えていないように感じる。靉嘔の絵画がレインボーカラーだけでも絵画たる内容を備えているのに対して、田中の作品はペンキ塗り絵に見えてしまう。本人の問題意識は違うところにあったのでしょう。しかしその関連作品である、松井紫朗の作品「between here and there is better than either here and there」(部屋の内外の微妙な気圧の差でビニールの袋が膨らむ)は面白かった。
http://www.mot-art-museum.jp/

松井紫朗作品
松井紫朗作品

“東京近郊美術館巡り(2012.3.25-3.29)” への4件のフィードバック

  1. fukuda より:

    短い期間なのにたくさんの美術展を見に行かれたのですね。その貴重な時間の合間にお時間を頂き、またご馳走にまでなってしまい、本当にありがとうございました。

  2. arai より:

    いやいや、どの展覧会よりfukudaさんとの再会が一番楽しかったですよ。ミャンマー料理良かったですね。おいしいものを囲みながらの気の置けない友人との会話は至福の時間ですよね。またぜひ!今度は何料理?
    そうだ、森美術館メンバーのfukudaさんにはぜひイ・ブル展は見逃さないように。面白いですよ。

  3. fukuda より:

    先生にそう言って頂けるとお世辞とは言え光栄です。イ・ブルは見逃さないようにします。
    ところで良い作品かどうかという事は、美術をご専門にされている方々にとっては専門的な観点から、いろいろとご意見はあると思いますが、私のような一凡人にとっては、他からは感じ取れないものをその絵画なりオブジェクトから感じ取れるような作品は、私にとって良い作品と考えて良いですか? ただその時に、個々の作品に訴えるものがあっても、私がそれを感じ取れないような貧困な感受性では、どんなに良い作品を目の前にしても、意味ないですよね。良い作品を観て、そこから何かを感じ取るには、まずは自分自身の感性を磨く必要がありますね。
    先生のプログを参考に、そんな私の感受性を少しでも高めることが出来れば幸いです。

  4. arai より:

    イ・ブルに限らず現代美術はありとあらゆる方法と素材で私たちの知性や感情、五感すべてに訴えかけてきます。
    しかもそれらの作品は特定の解釈を求めるのではなく、観客それぞれにオープンな解釈を求めています。
    なので、その作品とともにそこにある不思議な空間から、新しい世界を感じとってほしいです。こんな世界があったのだという素直な驚きが現代美術の一番の楽しみではないでしょうか。
    「作品はそれを見る、あるいはそれにかかわるあなたの創造性によって最終的につくられることを待っている」ので感受性は磨きましょう。
    (先生口調でお答えしました。)
    以前、現代美術の入門書のようなものを書いたので、ものすごく暇で何もやることがなかったら読んでみてください。
    「コミュニケーションの媒体としての現代美術」
    http://jairo.nii.ac.jp/db/detail-en?sid=0015/00004364

    http://sir.lib.shimane-u.ac.jp/metadb/up/bull.pl?id=6857
    で見られます。

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