高嶺格「遠くてよくみえない」展(広島市現代美術館)2011.6.19
[ヘンリームーア作《アーチ》から広島市現代美術館を望む]
6月19日、広島市現代美術館に行って来ました。
この日は例の高速道路休日1,000円の最終日(なぜ終わってしまうのか言うまでもないけど、こんなくるくる変わる政策でひどい目にあった人が大勢いますよね)で、最後にドライブを楽しんでおこうということと、今広島市現代美術館で「高嶺格(ただす)」の「遠くてよくみえない」とタイトルされた企画展をやっていたからです。
この展覧会は3月には横浜美術館で開かれていて、それが巡回したものです。
以前のtopicsに書きましたが、3月の震災時には東京にいて、実はこの展覧会を見る予定でした。震災で横浜もかなりの打撃を受け、その後しばらく横浜美術館が休館になり、楽しみにしていたこの企画展も見られなくなりました。
あの震災からもうすぐ4カ月になりますが、この間の政府等の対応のひどさにはうんざりしました。
こういう非常事態の時、リーダーがどれだけの政治的手腕と統率力、人間性、誠実さなど、それこそリーダーシップを発揮させなくてはならないかを痛切に感じるとともに、そういう人物がいない日本は不幸だと思います。
また原発のこと書いていたら「高嶺格展」に入れないけど、チョットだけ。
まず、原発事故発生時の東電、保安院、政府の対応。
3月15日までに77万テラベクレル(数字にすると770,000,000,000,000,000?何しろ「京」と言う単位です。)もの放射能が放出され、実は3機ともメルトダウンしていたこと。それを、どれだけ意図的かはわかりませんが、低く見積もり、また発表を遅らせている感じがありありと。特に、事故直後に、本当は「SPEEDI」で放射能の拡散予想が出ていたにも関わらず、情報を流さず避難もさせなかったこと。これは本当に罪が重いです。今になってもずるずると避難対象地域が広がっています。
言いたいことはたくさんありますが、あとは、私が気になっている言葉、発言を3つだけ書いておきます。
①「さしあたって人体に影響はない」
何度も繰り返されるこの言葉。数年後のことについては知りませんよ・・・。放射能の影響が後になって出ること、それが明確な根拠を持った数値がないことをいいことに責任逃れをしていると思われても仕方がありません。
②「安心のために放射線量を測定しています」
ホットスポット等の情報があるにも関わらず、なかなか政府、自治体が動かず、地元の母親などの自主的な動きから世論が盛り上がるとやっと重い腰をあげるいつものお役所仕事。しかも市の職員などが、放射能の計測をするときに必ず「安心するために」と言っている。測ってみなければ安心できるかどうか分からないのに。「安心」と「安全」は違います。その言葉には、どんな値が出ても「大丈夫です」というつもりであること、これ以上つべこべ言うなと言いたいことなどがうかがえます。
何も言わなければ何もしてくれない。いつの時代でも政府・お役所は国民・市民のためにはたいして動いてくれない。自分でやらないと・・・。
③「風評被害」
「風評」とは根も葉もないうわさのことです。本当に風評で被害に遭っている方も大勢いますが、現に放射能が測定され影響が心配されているものまで、値が小さいからといって「風評」とは言わないと思います。
とにかく汚染スポットをキチンと把握し、情報を流すこと。除染の仕方について周知するべきだと思います。いろいろな方法で少しでも放射能から身を守ることを考えないと。
広島市現代美術館
それでは「高嶺格」展です。
私は以前から高嶺格はすごく好きなアーティストの一人でした。
いままでに2度ほど作品を見ています。
最初は2002年、東京国立近代美術館の「連続と侵犯」展。
《God Bless America》という題名のビデオ作品でした。高嶺本人と奥さん(多分)の2人で2トンものクレイ粘土を、全身を使って大きな顔などの形に次々と成形していきます。18日間に渡って作っては壊し作っては壊しするのをずっと撮ったビデオです。8分くらいに縮めてあるので、ともかくパタパタ動きます。編集でクレイ・アニメーションのようにもしています。2人はソファで食事をし、友達と飲み、夜は寝ます。よーく見るとセックスもしています。
クレイの猿のような大きな顔が「God Bless America」を歌いますが、それはブッシュだとか。「9.11」を批判しているということですが、そんな批判精神などは感じませんでした。なんだかよくわからないけれどともかくおもしろい。生の生活と作品とが一緒くたになっていて、なんともばかばかしいのですが、見ていてその精神にほのぼのとした共感が広がります
次は2005年、横浜トリエンナーレの《鹿児島エスペラント》
広い真っ暗な部屋に入り2階のテラスに登ります。真っ暗な中でスポットの光が部屋にあるクレイでできた人型や様々なガラクタを動きながら照らし出すのを、そのテラスから見る大規模なインスタレーションでした。そのクレイには鹿児島弁とエスペラント語で書かれた言説(何について書かれていたかは不明)が書かれていて、それも浮かび上がります。光はアリアのような情感あふれる歌とともに動き、その歌が終わると1回分が終わりです。なぜかこの眼前に繰り広げられる音と光のパフォーマンスに引き込まれるのです。見いってしまって離れられない。大勢並んで待っているので、一旦出てまた並びます。なんと何度もそれを繰り返してしまいました。涙が出るばかりの何ともいわれぬ感動が私を襲いました。
この2つの作品は、なぜかは未だにわからないのですが、私に強烈な感動を与えました。その秘密を解きたくて広島まで来たわけです。
結果はなんだか肩すかしをくらったようでした。
《God Bless America》は私が見た大型画面とは違い、19個の家庭用の古いテレビモニターで映されていました。ナム・ジュン・パイクのよう。なんだかそれがさえない印象でした。
《鹿児島エスペラント》はなく、同じ形式の《A Big Blow-job》という作品がありました。クレイに書かれている「共有感覚とはなにか?」についてのテキストやがらくたを、スポットライトが照らし出します。しかしこの作品もあまりピンときませんでした。音楽が軽いさわやかなものでこれにもなんだか拍子抜けしました。
以前、私が高嶺作品から受けたあの衝撃はなんだったのだろう????
1980年代ポストもの派の論客、彦坂尚嘉氏は自身のブログの中で、高嶺格についていくつかの引用をもとに、
「不条理に対する抵抗が、実は、《解放への希求》であるというところが、高嶺格の人気の秘密である」
とし、さらに
「高嶺格は《解放への希求》に取り憑かれているが故に、作品そのものは《8流》でしかなくて、このクレイ・アニメーション(《God Bless America》)は、作品としては成功していないように見えます」
「つまり馬鹿で間抜けなアーティストである高嶺格が、芸術作品という枠組みの外に出てしまった、事実の面白さが、高嶺格の作品の魅力であるように見えます。
その作るものは正確には作品ではなくて、作品にはなり得ていない事実品なのです。
その面白さが、現在の観客の趣味と一致するのです。」
とかなり手厳しく書いています。
(http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/2008-09-06)
芸術としての厳密な解釈については反論する自信はないですが、芸術の外に出ようとする高嶺の心持ちのようなものには共感するところがあるし、それはかなり刺激的で、そこまでのばかばかしさを通して、人としてずしんとくる何かを持っているとは思うのですが。
その点で面白かったのは《ベイビー・インサドン》という作品があって、それは在日韓国人の奥さんとの結婚式までの葛藤を写真、ビデオとテキストで綴った作品なのですが、パンフに「プライベートな体験を元にしながら、国、人種、性別など自と他を分けるものとは何か、その壁を乗り越え理解に向かうこととは何かを問いかけます。」とあるように、在日の奥さんとの関係をもとにそうした問題に対する高嶺の真摯な態度が写真とテキストで綴られていて胸を打ちます。人間としてすばらしい感覚をしているし、信頼に足る人だということがわかります。けれども作品を見ていて興奮しない・・・・。
この作品は「不条理に対する抵抗」を、そのまま高嶺本人が呑み込んでしまって、律儀にもある種きちんとした回答まで行きついてしまったがために、《解放への希求》感覚を鑑賞者にもたらさないため???でしょうか。
ということは、「事実品」ではなく、形式も内容も整った「作品」になってしまったがために、高嶺の場合は面白くなくなってしまったということでしょうか???
いつもは私自身が楽しんだ展覧会を紹介していますが、今回はちょっとずッこけたものでした。
こんなこともたまにはありますね。
企画展は写真撮影禁止。常設展はOKなのですが、個人の記念(撮影)のためなら撮ってもよいということでした。HP等には載せてはいけないことになっています。
なので今回は長い上に写真もなくすみません。
せっかくなので美術館周辺の野外彫刻を2、3載せておきます。
「小さな鳥」フェルナンデス・ボテロ
「ヒロシマ−鎮まりしものたち」マグダレーナ・アバカノヴィッチ
「石で囲う」菅 木志雄
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