大震災に思うこと(2011.4.26)

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(Neutral Space1120)

山口画廊での個展の直前に東日本大震災が起こり、結局私自身が会場に行けず、その間美術に携わることの意味を考えざるを得ませんでした。そのことについてはすでに[information]でお知らせしましたし、[exhibition]と前回の[topics]でも書いたのですが、自分なりにもう少し整理しておきたいと思います。

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(Neutral Space1119)

私が感じたのはまずは無力感です。
美術家が制作するのは兎にも角にもまずは自分自身の救済のためです。
自分がどれだけこの世界にあるべくしてある人間なのか、それを制作を通して探すだけで精一杯。それさえもできるかどうかわからないところで必死になってやっているというのが真実だと思います。
あえて言えば他人の救済どころではないのです。
だから軽々しく「自分は全力プレーで被災地の方を勇気づける」とか「被災地に笑いを届ける」などと同じようには言えないところがあります。(もちろんスポーツ選手や芸人も多かれ少なかれ自己実現のためにやっているので、ビートたけしが言うように「芸人は今は何もできず粛々とするしかない」ということになるとは思います。)
まずは無力であると認識すべきだろうと思います。

しかし芸術における自分の救済とは、エゴや甘え、自分勝手な主張や物語ではありません。「制作」を何らかの形で世界との融合を図る行為とすれば、それは自分の身を引き裂き、骨を切り、血を吐く、いわば自らに対する過酷な試練なしには進めることのできないものだと私は考えます。
制作者は誰でも自分と他(他者・世界)との見えざる関係の困難さに身もだえしながら作品を作った経験を持つでしょう。
それなしでは芸術としての核が生まれませんし、そういった経緯から生まれる作品こそが、真に人類存在と世界の真相を照らし出し、人間が人間としてあるべき姿、尊厳と希望を映し出すのだと思います。
そしてそうした真の作品が鑑賞者に対して生きることの示唆を与え得るのだと思います。

この未曾有の災害−津波などでの死者数−それは単なる数ではなく、肉親や友人や恋人をもったその1人1人であること、その悲しみの総体。
それとともに、今の人類の叡智によっても制御ができず(だからこのことについては人類は叡智など持たない)、姿が見えないまま確実に人間の体内を蝕む放射能の恐怖。
この果てることのない不安は今まで日本人が経験してこなかった救いの見つからない暗黒に思えます。
どれだけの人がこの消しようのない不安と悲観を背負ってこれから生きていかなければならないのだろうと思うと恐ろしくなります。

こういった人間が人間として尊厳を持ち得ることが非常に難しい事態の中で、美術家が自分の命を懸けて(大げさに言えば「引き換えにして」)作り上げてきた作品こそ、生きることの示唆を与え、人間の尊厳を持ち続け救われるために力になれると信じます。
私は人間が芸術を持ち得たということは奇跡的に素晴らしいことであると信じていますし、自分自身の尊厳をかけてこれからも制作に向かおうと思います。

また話を一般生活のことに移しますと、今は自分ができることしかできませんが、それでも持ち場での仕事と授業を1つ1つ真剣にこなすことは、もちろん直接被災した方の力にはなりませんが、それでも単なる自分の仕事ではなく、日本の再建を皆とともに一歩一歩築いているのではないかという気持ちになります。
これは今までに感じたことがなかったことで、自分も日本人の一人として連帯感を持ってがんばって仕事をしていきたいと思っています。


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