美研のあれこれ(その1)
<エゴン・シーレのポプラ>
島根大学構内メインストリートのポプラです。見事に紅葉し一部の葉はもう散りかけています。
この時期のポプラを見るといつも瞬間的に「あっ、シーレの(描いた)ポプラだ!」と思います。シーレは何点か木の作品を描いています。私の記憶にある作品がポプラかどうか定かではありませんが、この細い枝ぶりとちらちらきらめく葉々やその間の空はまさしくシーレだと思ってしまいます。
他にもどこかで目にするものが、例えばピサロのような田園風景だとか、ゴヤのような悪い天気だとかいうことはよくあります。見たものを比喩として言うのではなく瞬間的に感じるのです。
これはもちろん、そのものの「典型」(本質的なものを端的に)を捉える偉大な芸術(家)のなせる技でしょうが、本物の風景・事物を見るたびに絵を思い出すというのは幸福なのか、不幸なことなのか。
自分の目で世界を見ていると思っていても先人の見方に規定されているということ・・・・。
ただ高校の時に絵描きになりたいと思い、40年近くを経た今でもそれを全うしたいと考えている私にとって、それは本望だと言う以外にありません。
現在私の所属している組織は、「島根大学教育学部芸術表現教育講座」という長ったらしい名称です。また学生の組織は「美術専攻」というので、教員の組織と呼び方が違います。
昔は全部「美術研究室」と言っていて、略して「美研」が定番でした。懐かしい響きです。
今回は私の所属している組織内(教員も学生も)のトピックスを書こうと思いますが、それを「美研のあれこれ」としました。
このHPは私の個人のものなので、公式の呼び方ではないですが馴染みの深い「美研」を使ってもいいでしょう。
○小谷充准教授の著書「市川崑のタイポグラフィ」好評発売中
その旧美研、島根大学教育学部芸術表現教育講座の同僚、デザイン担当の小谷充准教授が今年7月末に本を出版しました。(写真①)
「市川崑のタイポグラフィ –『犬神家の一族』の明朝体研究」(水曜社)です。
すでに9月26日付けの読売新聞の書評で「本書は『犬神家の一族』を中心に、そのクレジットなどに使われた『明朝体』の謎を解き明かした画期的な書である–」と取り上げられたのをはじめ、「キネマ旬報(2010.9月下旬号)」「朝日新聞(2010.9.26)」「図書新聞(2010.9.11)」「映画芸術(2010年433号)」などの書評で次々と紹介されています。
市川崑映画のタイポグラフィに焦点を当てた書籍は本書が初めてだそうで、小谷先生の綿密な調査と考察によりその「謎」が解き明かされていくスリルに満ちた書です。
ぜひご一読を。
写真①小谷充准教授著「市川崑のタイポグラフィ」
○卒業研究中間発表
10月6日、恒例の卒業研究中間発表会がありました。(写真②)
発表者は4年生6名(絵画専攻3、デザイン専攻2、美術教育専攻1)。
この中間発表では、3年後期から約1年間ゼミなどで研究してきた卒業制作(論文)の概要を全専攻生と教員に発表します。
来年2月の発表会及び美術館での展覧会が最終発表の機会になりますが、研究段階としては、この時期までに研究作品のコンセプトとスタイルの確立とその内容を保証する技量の獲得が求められます。
写真②卒業研究中間発表会
絵画専攻生(私のゼミ生)の3人はそれぞれ次のような研究をしています。
I 君は「作品自体が主体となりえる」作品を研究し、その理念に基づいた作品制作をして来ました。
絵画作品の主体は一体何なのかを研究する中で、それは私個人の個性とか制作者ではなく、作品そのものでありそれが鑑賞者に与える感覚そのものなのだと言う結論に至りました。
フォーマリズムの絵画批評としてミニマルアートなどに見られる理念ですが、彼はそれを歴史からではなく自分の制作体験から導きだしたところが、研究としては価値があるところです。
彼は画面を鑑賞者が自身の全知覚で受け止めるときに作品が成立すると考えたのです。
実際の制作は石膏やジェソ、墨などを使い、手で何度も塗りつける作業–個人の意思を乗り越える作業–を繰り返していますが、発表会で先生方の批評が集中したように、その画面の質が問われることになります。(写真③)
彼が考えたように、鑑賞者が既成概念や記憶を捨て去り、身体を全知覚として感じとるような状態に導ける力を持つ画面空間が築けるのか、これからのますますの精進を期待しています。
写真③ I 君の作品
Hさんは「日常をテーマ」として「見慣れたもののはずなのにどこか心に沁みるような、見る人それぞれにある記憶を誘うような」作品制作を試みています。(写真④「毎日・2」)
「見る人それぞれにある記憶を誘う」ことがポイントで、一点の作品で鑑賞者それぞれが自分の中にある真実にたどり着くようにするということでしょう。
その場のリアリティからは離れ、といって概念化(典型化)するのではなく、あくまでも一人ひとりの個別の記憶に結びつける作品の様態とは?
モティーフの選択、描き込みと省略、バック面の規定と曖昧さ、チョットだけ彩度の落ちた色などいろいろな問題の他に技術も必要で、彼女の奮闘は続きます。
写真④Hさんの作品「毎日・2」
Mさんは「現実の奥底にある本質を暴き、感情や記憶の底にあるものと繋がる可能性がある」抽象作品で、「寂しいようでそうでないような」淡々とした雰囲気の作品を制作したいと言います。
そのため、「何かなのだけど何かわからないような」「記憶と結びつくようで結びつかないような」形体と空間を「物の影」からできる形で作ることを試みています。(写真⑤)
この研究は「○○のような、○○でないような」という曖昧さが信条です。
何か知っているもの、わかるものに辿り着きそうで辿り着かないことがポイントであり、それが鑑賞者を魅了する秘訣となるでしょう。
鑑賞者の概念化を宙吊りにするような画面はできるのでしょうか。
そのためには綿密な計算とともに自分自身を感覚的に開放することも必要!?
彼女もこれからもっともっと頑張って欲しいです。
写真⑤Mさんの作品
こうしてみると、3人とも作品の意味がもともと作品自体にあるのではなくて、鑑賞者が作品を見ることによって、作品とコミュニケーションをとることによって発生するものだという点が共通するでしょうか。
現代の作品のあり方としておもしろいと思います。
○日本教育大学協会研究集会発表
10月16日(土) 日本教育大学協会の研究集会が、島根大学が当番校として、「サンラポーむらくも」と「島根県民会館」を会場に開催されました。
私が代表をしている島根大学教育学部学部長裁量経費による共同研究「教科内容学研究の開発と推進」プロジェクトも参加し、「『内容構成研究』授業の成果と今後の課題」というテーマで発表しました。(写真⑥)
写真⑥日本教育大学協会研究集会発表
私たちのプロジェクトは教員養成を目的とした授業の在り方–特に教科専門教員による–を「教科内容学」研究として昨年から進めています。
その中で具体的には、私たちの学部が2004年から実施している「内容構成研究」授業に焦点を当てて研究を進めました。
「内容構成研究」授業は島根大学教育学部が教員養成学部として特化した2004年から導入・実施されている教科内容学的授業–教科専門授業を学校教育の教科内容や実践と結びつけた授業–です。
今回の発表は、今まで教員が各々自分の創意工夫で独自にやっていたこの授業について、昨年教員アンケートをとり、その実態を把握しその成果と問題点、今後の課題をまとめたものです。
アンケート結果の要旨としては、
①授業内容は教材研究(55%)・模擬授業(20%)・教科書の内容解説等の実践的授業、演習・実習・実験等を織り込んだ授業が多い
②教育実践を視野に入れた授業をしている教員が多い。 またその内容は多様であり、各自がそれぞれにこの授業の趣旨を解釈・工夫をして授業している。
③実践的内容を持つ授業により、現場での授業に有効であろうとする意見が多い。また効果をあげているという肯定的意見が多い。
④自分の専門授業と内容構成授業の関係はあると考えている教員が多いが、その内容については様々である。
などをあげました。
自由記述から「専門」の意義や本質的内容を教科書や教材の中に見出す、関連付けるという目的を持って授業をしている教員が多いことがわかりました。
また今後の課題としては、①この授業の共通の理念を構築できないか ②カリキュラム上の位置づけができないか。③教育実習と関連付けられないか。④教科教育教員と教科専門教員との組織的・定期的な話し合いが持てないか、などをあげました。
私が思うのはやはり学生の専門の力が弱いということです。授業実践において何よりもその授業の中核となっている内容(美術という芸術が生徒の創造性と生きる楽しみや力を与えられるその秘密)を確実に頭に置いて授業ができているだろうか心配になります。
専門内容–美術のすばらしさ–を授業のなかに活かせるよう自分自身の内容構成研究授業では授業内容を工夫したいと思っています。
12月には学部内で上記の課題の1,2をもとに「教科専門教員はどのような目的・内容で『内容構成研究授業』を行うか」「専門授業と内容構成研究授業をどのように区別するか」をテーマとして授業発表や討論をする研修会を計画しています。
○新任教員紹介
今年度お二人の先生が「美研」に加わりました。
4月からは藤田英樹准教授(写真⑦)。一昨年、転勤された彫刻の石上先生の後任になります。
専門は木彫。人物をモティーフに人間存在の不確かさや脆さを主題にした人間の内面性を表出する彫刻作品を発表。また数体の彫刻・オブジェを配したインスタレーション作品も手掛けています。
藤田先生は昨年まで信州大学に勤めておられました。専門の研究や大学での授業はもちろんのこと、学会の事務局、学生指導、実習指導、美術館等のワークショップなど豊かな経験を持っていて、国立大学法人の美術の関係者のなかではすでによく知られた存在です。
こちらに赴任したてですが学部内ではもうすでに実習部会委員などの仕事もこなし、また我々の講座でもワークショップ実習等中心的な仕事をしていただくなど頼もしいかぎりです。
写真⑦藤田英樹准教授
写真⑧有田洋子講師
10月から美術科教育の有田洋子講師をお迎えしました(写真⑧)。
なんとまだ20代の若さです!学部の教員で最年少になります。
私たちの講座の美術教育担当佐々有生教授が今年4月から附属3校園(幼稚園、小学校、中学校)の校長となり、実質的に学部の授業などができなくなったための後任となります。
有田先生の専門は鑑賞教育。日本画を中心に、鑑賞において意識的に言語を介在させる方法論や、それを発展させ感情と表現内容を明確化する指導方法を研究し、すでに何本かの先鋭的な論文を発表されています。
赴任当初から授業、実習指導に精力的に励まれています。
教科教育は私たち教育学部にとってやはり基幹となる分野です。今後若さを生かして学生の実習指導などに中心となっていくと期待しています。
お二人を加えて講座は5+1(佐々教授)の充実した体制となりました。
これからますます学生教育、地域への美術貢献など勢いを増して頑張って行きたいと思います。
○門脇伸治君の死を悼む
それは突然の訃報でした。
学生からH.16年度大学院を修了した門脇が亡くなったと聞いたときはまさかと思いました。
門脇は私のゼミで修士課程を修了し、美術の先生を目指して講師やバイトをやっていました。30歳でした。
彼はついこの夏のSEED展にも100号の作品を2点出品しています。
10月15日の朝突然逝ってしまったということで、お葬式はもう終わっていました。
ご両親に連絡をとり、23日(土)美研の卒業生・在校生14名でご焼香に行って来ました。
前の日に寝たままの安らかな寝顔だったそうです。急性心不全ということでした。
ということは本人は自分が死ぬこともわからなかったのでしょうか。理不尽すぎます。
またあまりに突然のことでご両親もどう受け止めていいかわからなかったと思います。
ご両親の気持ちを思っても胸が痛くなります。
門脇は本当に実直で頼りがいのある頼もしい男でした。
気は優しくて力持ち。何があっても怒らないで、辛抱強く自分の仕事をコツコツと果たしていました。
ですから講師をしていた中学の生徒にはずいぶん慕われていたようです。
私たち美術研究室卒の近くの者が14名も集まった他に、ここ10年程の卒業生40名から香典が集まりました。
寡黙な男だったので、ご両親は本人が外でどんな様子だったか知らなかったようで、私たちの語る彼のエピソードにひとつひとつ「へぇ、そうですか」と言って目を潤ませていました。(SEED展に来ていたかわいい女の子はずっと話をしていましたよ。)
遺影のある部屋には門脇が描いた、大学のアトリエに一人立つ自画像、枯れ葉の落ちているコンクリートの道、今年のSEED展出品作。みな見覚えのあるものでした。
制作中だった作品が本人の部屋にあるというので見せて頂きました。100号の画面に白い石膏とアクリルメディウムで厚くマティエールが作られていました。もちろん途中ですがとても美しかった。彼は3年後のSEED展も考えていたのでしょうか。
彼は早朝の漬物屋のバイトも、老人ホームのお年寄りの世話も、いくつかの中学校での講師も、倦むことなく、誤魔化すことなくすべての物事に誠実に向かっていました。
言うまでもないことかも知れませんが、彼のような若者が本当の意味で社会を支えているのだと思います。
私は彼の指導教員でもう何年も多く彼より生きていますが、それでも正直これでいいのだろうかと不安な気持ちになることも多いです。
そんな時は門脇のひたむきな目を思い出すことにします。
彼はいつも私たちの心の中にいます。
(門脇伸治「 地 」アクリル、ミクストメディア 162×393cm
H.16年島根大学芸術研究科修了制作作品)
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