随想1
[Contents]- アクリル絵具とのつきあい
- 「SEED展」について[1]
- 「SEED展」について[2]
- 「SEED展」について[3]
- NEW YORK HANGING AROUND
NEW YORK HANGING AROUND
一昨年(1997年)9月から昨年(1998年)の8月までの1年間、文化庁芸術家在外研修員として、家族とともにニューヨーク郊外、ニュージャージー州フォートリーに滞在した。ニュージャージー州の大学に客員として籍を置いていたが、そこでは4月に個展と講演を行っただけで、実際には毎日のようにニューヨークの版画工房–プリントメイキングワークショップ–に通い制作を行っていた。1年間マンハッタンを歩き回るうちにすっかリニュー∃ークの虜になってしまったが、以下ニューヨークの美術事情を織り交ぜながら私の辿った足跡を紹介しようと思う。
フォートリーはハドソン川に架かるジョージワシントンブリッジのたもとにある町で、バスに乗り20分ほどでマンハッタンのど真ん中42 ST.に着く。ここから私が仕事をしていた24 ST.の工房までは歩いて30分ほどである。
タイムズスクエアからブロードウェイの下端「ライオンキング」と「ラグタイム」の劇場の間を通り、6th Ave.あたりを南下しメイシーズやエンパイアステイトビルのわきを抜け、フラットアイアンビルという恐ろしく薄い三角形の高層ビルを右に折れると工房がある。日によってストリートやアヴェニューを変えるとヴァリエーションが楽しめる。
プリントメイキングワークショップには世界中から様々な版画家が制作にきていた。私はペルー出身で日系二世の奥さんを持つクラウディオと仲良くなった。彼はここで池田満寿夫や荒川修作とともに仕事をしていた60年代のことをよく話してくれた。実に様々な技法を知っているテクニシャンであり、また的確な批評をしてくれるので、私は作品ができるたびにクラウディオに見せた。昼にはよく近くのマディソン・スクエアパークでいっしょにピザやペーゲルを食べた。
ここを起点にまた街に出る。例えば画材店の一つはソーホーの南、キャナルストリート沿いにあり、そこからチャイナタウン、ソーホーの画廊、ワシントン・スクエアをぬけグリニッジヴィレッジまでぶらぶらする。もう一軒はイーストヴィレッジにある。店によるかたわらアスタープレイスから8 ST.をトンプキン・スクエアまで歩く。この辺りは60年代はヒッピーの溜まリ場でまた反戦活動の拠点だったらしい。今でもガイドブックには行かない方がいいと書かれてあるが、そんな怖いところではなく、それどころか奇妙な雑貨屋やレストランを見ながらうろうろしていると、ぞくぞくするような懐かしいような何とも言えない気分になり、私はすっかり病みつきになってしまった。
ソーホー地区は60年代から台頭した老舗の画廊が多<、私のあこがれの場所であった。レオ・キャステリや0.K.ハリスといった有名な画廊が建ち並ぶソーホーで、私も7月に個展ができたのは幸運だった。ソーホーは客が多く活気があるが、最近はブティックも増えて観光地化されすぎたようだ。それに代わリトライベッカやチェルシーの西側におもしろい画廊ができている。
メトロポリタン、グッゲンハイム、ホイット二ー、近代美術館(MoMA)など有名な美術館は5th Ave.からアッパーイーストにかたまってある。各美術館ともキューレーターによる企画展が充実している。滞在中だけでもローシェンバーグ、ワイエス、ボナール、シーレ、草間彌生などの大個展が次々と開かれていた。
普通どの美術館も10ドル近くの入場料を取るが、MoMAとグッゲンハイムは金曜、ホイットニーは木曜の夜はドネーションによる入場になる。したがって木曜か金曜はワークショッブから地下鉄で北に上り、25セント〜1ドルで展覧会を堪能してから帰る。グッゲンハイムなどはよく館内でジャズ演奏をしており、加えてワインがでたりする。これが全部無料。この優雅さには参ってしまう。ただグッゲンハイム、ホイット二ーは大きな企画のときは常設作品があまり見られず、収蔵品が見たい人にとっては期待はずれになることがある。MoMAは企画の他に常設がいつも充実しており、特にマティスの部屋は本当にすばらしい。私にとって地球上で最も大切な場所の一つになった。
こう書いてくるといかにもニューヨークを楽しんでいたようだが、普段の生活はハプニング、トラブルの連続だった。当然英語でこちらの言いたいことを充分には相手に伝えられないわけで、この1年間、子供3人をそれぞれ1、6、9年生として現地の学校に入れ、地域に腰を下ろして生活するのはなかなか大変であった。子供3人の授業、宿題、行事、課外活動、リトルリーグ、キャンプ、PTA(妻は役員になってしまった)などへの対応。幸いすばらしい先生や友人に恵まれ、3人とも1年間元気に通ったが、それ以前に地下室がガス臭かったり、電話が突然通じなくなったり、キャッシュカードを紛失したり、交通違反で3回も捕まったりと普段の生活にも落とし穴はたくさんあった。また私にとって自明性を持たないこの言葉のために、講演の前には友人の牧師に何度も原稿を直してもらったり、電話をかけるときは用件をノートに書いておいたり、苦しみを挙げればキリがない。
結局、こんなトラブルを通して実感したのは、自分が単なる無能力な一人のよそ者でしかないということだ。格好悪くてもなんでも、一つ一つの事態を何とかしなくてはならないし、その時必死になっているのは裸の自分だった。それはきついことではあったが、妙にすがすがしいことでもあった。今、あんなにもニューヨークを歩き回ったのは何故なのだろうかと考える。その時間、ニューヨークの濃い光と影の中で、一人の弱者、無能力者としての自分を受け止めていたのではないか。グリニッジヴィレッジ、イーストヴィレッジなどを歩いて、初めての土地なのに何か懐かしく感じたのは、何者でもない単なる一人の人間としての資格だけで立っている自分に、青春を振り返るのにも似た懐かしさを感じていたのではないかと思う。
「島大通信 No.34 April 1999」