随想2

[Contents]
  1. アクリル絵具とのつきあい
  2. 「SEED展」について[1]
  3. 「SEED展」について[2]
  4. 「SEED展」について[3]
  5. NEW YORK HANGING AROUND

「SEED展」について[3]

Mさん(H7卒業)—Mさんは大学近くの造り酒屋の白壁などを油絵具以外のいくつかの材判を混ぜて描いていた[図版3]。彼女の興味は風景の空間構成にあるのではなく、その壁の物質感の強さだった。したがって壁をなるべく大きく正面から扱ったのは当然のことだった。壁のテクスチャを絵画的なマティエールとして魅力的にだすため、確か胡粉、石灰、アクリルなどを混ぜて使っていたが、それがマットな味わいをかもし出した佳作となっている。
 卒業から9年後、SEED展ではその壁が「モティーフ」から「絵画そのもの」となって現れた[図版4]。それはより洗練され優雅で詩的な表情を持つ物体となった。発砲スチロール等を使用するなどの工夫で卒制時の手段を目的とし、絵画としてより徹底した作品となっている。卒制の志向をより突き詰めて具現化した手腕を賞賛したい。

Iさん(H13卒業)—抽象は大学でアカデミックには教えづらい。本号の別のところで述べたように、私としては「模倣的」(マネをして)に体験するか、技法としてコラージュやマティエールを教えることの中に組み込むか、近代の絵画史によりその理念(近代的抽象)を教えるなどで抽象をできるだけ体験させようと工夫はしているが。
 Iさんは卒制で、突然柔らかな光や緩やかな音楽の流れのような抽象を描いた[図版5]。その時点ではまだ構成原理的な硬さが見えるが、今回の作品はそのような理屈っぼさかなく、茫洋とした空間は非常に豊かで深さとやさしさを湛えている[図版6]。このような作者の自我を薄く消し去ったような作品は今日の絵画のあり方としても興味深い。

Gさん(H13卒制—Gさんは不思議な詩情をたたえた作品を描いていた[図版7]私は山口薫や脇田和などの作品や造形詩的な作品を参考に見せたりしたが、この詩情の発生がどこにあるのか私も本人もよく解明できないまま(それは当たり前のことでもあるが)不思議で楽しい作品を卒制として残した。その不思議さは今回も失われることなく、私たちを楽しませてくれた[図版8]。
 彼女は一般企業に就職し、大変忙しいにもかかわらず、100号を4点送ってきた。絵画への情熱を持ち続けている彼女はなんとも頼もしい。

Yさん(H16卒業)—Yさんは昨年3月卒業した時には自分のコンセプトを持った絵画の獲得にいたらず、絵画とは何かを考えるため、絵画の造形原理を復習して自分のものにすることを目標として制作をした「図版9]。前述したように、本来本人なりのコンセプトとスタイルを持ったものを卒制としたいわけだが、それが独りよがりなものになることよりも、彼女は基本的絵画制作に戻り勉強することを選んだのである。
 それまで心もとなかった技術は卒制に至って力強く確かなものになり、習作的な部分は残っているものの、自分の中に絵画をきちんと定着させて卒業していったと思う。
 それから半年後のこの展覧会には、横たわる自分の顔をすさまじく大きく描いた衝撃的な作品を出品した[図版10]。それは卒制で身に付いた確かな描写技術をもとに、とてつもなく大きな顔の不気味さにより、自分にとって未知で不気味な存在としての「自分」というものを見事に定着させたものだった。彼女が短期間にこのような作品に至ったことを早急には解釈できないが、こつこつと根気よくまた情熱をもって絵画に向かった思いに圧倒され、驚くとともに感動した。

 以上5名をピックアップして卒制と「SEED展」の作品のかかわりと、その意味について述ぺてきた。他の出品者もそれぞれ自分なりのコンセブトを持った作品を出品していた。紙面の都合で紹介できないのが残念である。
 最初に述べた私の興味について結論(分析結果)をいうならば、かれらは皆自身の力で絵画を自分の生きる力にしていたのだ。
 このような卒業生たちの絵画 に対する誠実でひたむきな取り組みが作品から確かに感じられたことが私にとってこの上もない喜びであった。

2004年島根大学教育学部芸術表現教育講座美術教育研究誌「Arte(アルテ)」より

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