芸術論集/絵画制作の理念とアクリル技法をめぐって(2)・4

絵画制作の理念とアクリル技法をめぐって(2)[4]

 On the Concepts of Painting Works and the Acrylic Techniques (Part2)
 (島根大学教育学部美術科教育研究室/美術論集第2号/平成8年3月)

5.作品について

理念と方法

 筆者は,1986年から1988年にかけて「博物誌」や「PLAN」あるいは「Connection」と名付けた作品を十数点制作している。これらはいずれも日常物の形象をもとに,そこにその形態との関連(または無関連)的な形を,種々の絵画的技法——ドローイング,ドリッピング,エアーブラシによる吹きつけ,色面など——によって「意味のありそうな」(またはなさそうな)即興的形象として付け加え画面の組み立てをしたものである。
 これまで述べてきた「ノンセンス」の方法や村上春樹の小説空間は,現実から隔離し「閉ざされた場」を自らの内に構築することにある。現実に触れ合えないという不可能性に拠って,このような「閉ざされた場」を絵画的手段によって定着させようとしたのが筆者の作品である。
 最初の形体は現実(動物や日常品などの写真)から取り入れるが,それらは写真からプリントした観念的な形であり,描くことによる個別的リアリティは取り入れないようにした。次にその輪郭的な形をもとに,絵の具を垂れ流すことによって偶然できる形や,無意識的なストロークなどによって形を「増殖」させ,画面を構築していく。つまり一つの形をもとに,その形との連関や非—連関によって,虚構の世界を造り上げるのである。この手法と制作手順によって現実的感触(リアリティ)を消去してゆけると考えた。形体は描き進めるたびにいわば「脱け殼」となっていき,画面の表面だけで展開する「閉ざされた場」が造られることをねらった。
 制作のプロセスは,「観念的な形体」→「偶然できる形体」→「それを模した形体」→「それと形の似ている形体」→「即興的なストローク,エアーブラシの吹きつけや色面の配置」→「関係する言葉のプリント」という形で進む。画面ができてくるにつれて現実から離れてゆき,しだいに画面の中だけで構成展開し,そして画面の中でまた回収する絵画が生まれると考えた。
 形体の発生に関して「観念の連関」や「偶然の模倣」などを用いているが,これは言葉の上の比喩や地口(パン)などの「ノンセンス」の方法を,形体をとおして展開したということである。またこの方法により村上春樹の小説構造と同様な,空虚で満たされたパラドキシカルな画面ができるのではないかと考えた。それが筆者にとって「意味に囚われる」ことのドグマから逃れ,自由になるための絵画的方法であった。

制作の手順と技法

 「博物誌II —BIRD—」では,@2つに分けた画面のそれぞれの左下にある「熱帯の鳥」がもとの形である。写真から孔版によって転写する。A左半分の赤の面にランダムに色を置いた後,鳥の形になるようにグレーのジェソを垂れ流す。“鳥の形になるように”といっても,垂れ流した絵の具は思うようにならず,形の行方は偶然に任せることになる。B出来た形を右の白い面にトレーシングペーパーで転写する。Cそこにマスキングによる色面,「THE PACIFIC」などの文字,種々の描画素材によるなぐり描きなどを加える。D「THE PACIFIC」「L. A」などの文字からの連想で,左下の鳥の形の一つを地図上の島とする。
 「PEANUT PLAN」では@画面中央の黒い色面に大きなピーナッツを置く。(これも写真からの転写)A周囲に絵の具の垂れ流し,その拭き取り,ストローク,エアーブラシの吹きつけなどの偶然,無意識の形を配置する。B数字や「どうたい」などの文字や色面を加える。Cピーナッツと形の似ている靴やアイスクリームの形をプリントする。
 「博物誌II—BIRD—」は@,A,B,C,Dがある関連をもちながら形が生まれ,変化,循環することで画面内だけで成立するよう構成した。「PEANUT PLAN」は,ほとんど無関係で意味のないものが,全面的に散在している。観念的なつながりを拒否していて,見る人の期待をはぐらかすよう構成した。

そのアクリル技法は,

  1. まず,フラットな画面と,マスキングをしたベタ塗りの色面。描くことを拒否し,個性的な表情を消すためには,アクリル絵具が適している。
  2. モティーフや画面上の形体,数字や文字はすべて写真からコピーをとり,そこから騰写ファックスで版を作りプリントしたもの。アクリル絵具で刷ることができる。
  3. ストローク(なぐり描き)にはアクリル絵具の他,木炭,オイルパステル,色鉛筆などの描画材料を混用している。
  4. たらした絵具はジェソ。大量のジェソを一気に流す。意図(意識)と偶然(無意識)が折り合って形となる。

「CUBIC STUFF」シリーズからの展開

 前作の「CUBIC STUFF」シリーズにおいてすでに,自我を消し去り記号的な虚無の世界を築き上げるという理念による制作はされていた。今回,基本的な理念の点では変わらないのだが,スタイルは大きく変わった。この点に触れておく。
 「CUBIC STUFF]シリーズでは「現実との接触を回避」し,「表層としての世界を構築する」ため,制作は「自ら定めた法則に従って機械的に行われ」(10)たことは前稿で説明したが,そのためスタイルは変更のしようのないものであった。と言うよりも,変更しようとしないこと——ポップアートの理念と同様に,一度とったスタイルに徹すること,いつまでも無反省に繰り返し展開を願わないこと——自体がコンセプトの一貫であった。つまりコンセプトの中に「新しい展開を自ら拒む」という構造を内包しているのである。
 しかし,この自分の規則による完全な支配への欲求は偏執的であり,「狂気」(11)に近いものである。この「狂気」を回避するため,機械的な作業の繰り返しを十七作で打ち切ったのである。

 「博物誌」や「PLAN」のシリーズでは,

  1. 「契機」として具象的な形を導入した。このことによってもとの形が変えられ,ヴァリエーションが生まれた。
  2. 絵具の垂れ流しという〈偶然性〉やドリッピングやストロークなどの〈意識化前〉の形の導入,またそこからの転写などによってイリュージョンの表出,個性的な表現から逃れる。
  3. ある形からある形への関連の中で意味を繋げたり断ち切ったりと,形体のイメージ作用の回路を脱臼させることで,制作の過程の中で自らが遊ぶ,遊びの無償性,不毛性を強めた。
などの手段により新しい形式を作った。その中で《偶然性》の導入は,前述の「CUBIC STUFF」のルールによる支配への偏執という狂気的な制作システムを相対化する手段としてとったものである。そのことで画面は流動性を帯びた。しかしながらその《偶然性》も決して筆者自身の厳密なルールの外にでることなく,かえって《偶然性》をルールの絶対的な起点として作用させたことになる。したがってこのような《偶然性》では,狂気を《相対化》したことになっていない。

『虚偽の中から虚偽』

 筆者は「PEANUT PLAN」が掲載された作品集に,

「70年代に仕事を始めた私は,その出発の時点で,芸術の虚弱性・無力感と対峙させられた。芸術という名の絶対性が崩壊した後に制作を始めなければならないということは,幸福なのか不幸なのか——。(中略)
 今,作品を作るということは,ある意味では——絶対的基盤がない以上——『でっちあげる』ことだと思う。何が真実だかわからないのなら,自分の作品が真実だと叫ぶこともおこがましいことで,かえって『嘘』が必然ではないかなどとおもってしまう。(中略)
 なるべく無に近い中性的な形から観念的関連による形の増殖と(無意味な)意味づけ。虚偽の中から虚偽を生み出す——いわば『でっちあげる』——ナンセンスな作業を最近は繰り返している。(後略)」(12)
と書いている。ここでの「『嘘』が必然」とか「虚偽の中から虚偽を生み出す」「でっちあげる」などの言葉は,多少自虐的ながら,現実的リアリティ=意味の体系に因らない,表面だけの小宇宙を形成しようという筆者の決意を表している。それが当時の絵画の瀕死的状況のなかで,筆者にできた「絵画から遠く離れつつ絵画をなお愛したい」という屈折した欲望の答えであった。

6.おわりに

 乱暴な言い方だが,「作品」が制作者の意図を表しているかどうかは,最終的には制作者の関知すべき問題ではない。自らの作品を解説しようとすることは虚しさが付きまとうし,それが自己弁護だとしたら,何も言わないほうが優ると言わざるを得ないであろう。
 作品には作者の意図が詰め込まれていて,それを汲み取ることが絵画の見方であると考えること自体近代的である。筆者の作品は,画面を「閉ざされた場」として,鑑賞者の視線をはねつける構造を持つ。具象的でありながら感情移入を拒否することをねらっており,この点でも近代を批判するものである。
 ここで述べたことは「作品」そのものの解説ではなく,筆者が「制作しようと試みたこと」の説明である。いや,「制作しようと試みたことの説明」ですらないかも知れない。
 前稿では「作品」は「作者」と完全に一致することはなく,「作品]と「作者」とのズレの中に真の姿があると言ったが,今回,書き終えてみると「言葉」は「言葉」,「作品」は「作品」——それぞれが独立したものであるという思いが強い。そもそも「精神の状態」という前提自体,証明のしようのないものであるなら,この文章自体―つの創作とならざるを得ないのではないか。
 元来,制作者にとって制作上の理念とは,理論として体系化されているものではないであろう。完結した理念があったら絵を描く衝動など起きないかも知れぬ。筆者にとっては,核心を突く言葉(「『私』を非在化していくような姿勢によって存在する」とか「虚偽の中から虚偽を生み出す」など)さえ発見できれば,あとの制作の秘密は画面と向き合う,その時間と空間の中にあるのではないかと思っている。

[註]

  • (10)拙著「絵画制作の理念とアクリル技法をめぐって(1)」『美術論集第1号』
    (島根大学教育学部美術研究室,1995)p.50
  • (11)分裂病の特徴として《病的幾何主義》と呼ぶものがある
  • (12)『ACRYLART展』カタログ(ホルベイン工業株式会社,1989)p.13
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