芸術論集/絵画制作の理念とアクリル技法をめぐって(2)・3

絵画制作の理念とアクリル技法をめぐって(2)[3]

 On the Concepts of Painting Works and the Acrylic Techniques (Part2)
 (島根大学教育学部美術科教育研究室/美術論集第2号/平成8年3月)

4.村上春樹の小説世界

村上春樹の小説の主題

 村上春樹は1979年のデビュー以来今日に至るまで,一貫して高い人気を持つ小説家である。特に「ノルウェイの森」(1987)は350万部という大ベストセラーになった。
 しかし,筆者を深くとらえた作品は「風の歌を聴け」(1979),「1973年のピンボール」(1980),「羊をめぐる冒険」(1983)のいわゆる初期三部作と,その初期の集大成ともいえる「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」(1985)までである。筆者はいまでも村上春樹の熱心な読者ではあるが,上記の作品以降彼の小説世界は微妙に変化し,小説の全編を漂う“凝縮された思い”が薄れてきたように思える。と言うよりも,当時は筆者の側でその“凝縮された思い”に自己投影する土壌があったためかも知れない。
 “凝縮された思い”とは,断念あるいは自己放棄の決意と言ってもよい。深海遥は「観念の病から自由でありたい。逃れられないけれども,いつも自覚的でありたい」(7)と願うことが,村上春樹の倫理であると言っている。自分やら世界について,観念は自らを膨らませ強固な像を造り上げ,そのことによって逆に,その像に縛られしなやかさを失う。この事を「観念の病」と言っている。こうした観念を構築していく動きを嫌い,それから距離をとりたいという思いである。このことは前章で述べた,「意味を求める心」の問題と同義であろう。「意味を求める」ことが「観念の病」になってしまうのは,私たちの時代の不幸であろう。村上春樹はそんな時代の不幸を象徴している作家である。
 村上は意味の重さをずらし解消するため,自己と他者との関係の不可能性を絶対の前提とする。(このとき「他者」とは個別の他者というだけでなく,絶対的な他者すなわち「世界」,「宇宙」と言い換えることもできるし,「他者」が自分自身への過剰な,そして満たされることのない関心によって発生すると考えれば,「他者」とは「自分」であるとも言える。)そのことにより「私」を露出すること,「私」を内面化すること,「私」のリアリティを他者に押しつけることを強く禁ずるのである。村上春樹はこのような,「私」を非在化していくような姿勢によって存在し得るというパラドキシカルな人間を描くことを主題とする。筆者はこのような人間像が,今日の人間のリアリティであると思うのである。
 村上は,個人の「内面」を語ること(それは「個人」を信じられる人間にのみできる幸福だ)を断念したところから出発し,そこからなお言葉を発しようと(小説を書こう)とした作家である。蓮見重彦はそのことを,「『小説から遠く離れ』つつもなお小説を擁護したいという屈折した欲望に言葉を与える試み」(8)であると言っている。

村上春樹の小説の文体

 村上春樹の小説は自己表出への強い禁欲に貫かれているが,そのことの実現は彼の特殊な文体によって可能になる。その文体により彼の小説は,ストーリーの展開とともに自分を非在化してゆく——「私にまつわる意味の重さを解消してゆく」——構造を作り上げている。このことを村上の文体の特微からいくつか指摘しておこう。

(1)痛快な会話
「・‥先月離婚したのよ。離婚した女の人とこれまで話したことある?」
「いいえ。でも神経痛の牛にはあったことがある。」
(「風の歌を聴け」)

 「離婚した女」と「神経痛の牛」を等価にしてしまい,話を無意味にする「ノンセンス」な会話である。村上の小説の主人公『僕』は常にやさしいが,そのやさしさとは上記の会話のように,相手に深入りしない「自閉症」的やさしさである。また,このような「ノンセンス」な会話は,言葉から重さを奪い取る。言葉はただ清潔な記号になって宙に浮くよう綴られてゆく。

「気にすることはないさ。誰だって何かを抱えているんだよ。」
「あなたもそう?」
「うん。いつもシェービングクリームの缶を握りしめて泣くんだ。」

(「風の歌を聴け」)
 悲劇は茶化すしかない。このような痛快さは暗鬱さの裏返しである。悲劇は決して語られることはないが,この表面上のユーモアは「暗鬱さ」が分泌させたものである。

(2)比喩の多用
「・‥ウェイターがやってきて,宮廷の専属接骨医が皇太子の脱臼を直すときのような格好で,うやうやしくワインの栓を抜き,グラスにそそいでくれた。」
(「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」)
「ごてごてした通りがメロンのしわみたいに地表にしがみついていた。」
(「羊をめぐる冒険」)

 村上は比喩を多用するが,“形容するもの”と“形容されるもの”の間のズレが大きいのが特徴である。それにより“形容されるもの”は薄れてしまい,いつしか“形容するもの”独自の虚構の王国が築かれる。比喩の諧謔的な気分によって現実を遠ざけ,また内面も隠蔽されるのである。

(3)一般名詞的名前・数字の多用

 登場人物は「僕」,「鼠」,「ジェイ」,「羊博士」,「貧乏なおばさん」などと呼ばれ,一人の人間として識別されるための固有の名前をもっていない。そのため,登場人物はあやふやな観念のまま,実体が掴めないまま宙に浮く。こんな名前により個々の人間のリアリティは希薄になる。

「・‥1969年8月15日から翌年の4月3日までの間に,僕は358回の講義に出席し,54回のセックスを行い,6921本の煙草を吸ったことになる。」
(「風の歌を聴け」)
 名前がないことで個々の人間の質を捨象するのと同時に,体験を数字化することで1回1回の個別的な体験,交換不可能な質を捨象し,その内容を伝えない。この際の数字は現実に立ち向かわず,物事を分類して一般論に解消するための身振りである。その存在,意味を伝えないために数字を用いている。

(4)遊戯的行動様式

 村上春樹の小説の主人公『僕』は,行動にこだわりをもっている。例えばスパゲッティの茄で方や,ボタンダウンのシャツのアイロンのかけ方などに厳密なきまりがある。『僕』は自ら規定した厳密な行動様式を守って生きている。このような生活の実感から離れた一種のゲーム的な行動様式によって実体感を奪っている。

 これらが村上春樹の文体の特徴である。松下千里は,村上の文体は「言葉が対象との照応からではなく,対象との照応を封じられたところから生まれる」(9)と言っているが,これは前述のように村上が対象との接触を断念したことにより必然的にとられた文体であると言える。このような文体によって初めて言葉は現実に介入しないものとなり得たのである。村上の言葉は現実と接触せず,むしろその間に遊戯的な空無をつくりだし,その恣意性により現実との緊張感を解消する役割を果たす。村上のスタイルとはそんな「空虚さで満たされてゆく」パラドックスによって成立している。そして村上の小説は自在に,巧妙にリアリズムから離れるのである。
 前述の村上春樹の主題の成立は,描くたびに意味を削ぎ落としていくような特異な文体=形式に負っている。この文体が筆者の絵画の形式にとって大きなヒントとなった。

[註]

  • (7)深海遥『村上春樹の歌』(青弓社,1990)p.11
  • (8)深海 同書 p.66
  • (9)松下千里「密室のなかの〈スペースシップ〉」『シーク&ファインド村上春樹』
     (青銅社,1986)p.156
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