芸術論集/絵画制作の理念とアクリル技法をめぐって(2)・2

絵画制作の理念とアクリル技法をめぐって(2)[2]

 On the Concepts of Painting Works and the Acrylic Techniques (Part2)
 (島根大学教育学部美術科教育研究室/美術論集第2号/平成8年3月)

3.ノンセンスの意義と方法

ノンセンスの意義

 高橋康也は《nonsense》を「ナンセンス」と「ノンセンス」に区別し,「ナンセンス」を 文字通り辞書的に,また一般的に《意味のない状態》と解釈するとしたら,「『ノンセンス』は《意味を無化する方法》」であるとし,また「その空無の中から,別種の,おそらく名づけようのない,新しい《意味》を出現せしめる方法」(2)として独自の意味合いを与えている。
 ところで《意味》とは「@ある表現に対応し,それによって指示される内容」である。つまり〈言葉〉と〈もの〉,〈記号〉と〈効用〉,〈意味するもの(シニフィアン)〉と〈意味されるもの(シニフィエ)〉の結合によって成立するものである。また「A物事が他との連関において持つ価値や重要性」(3)でもある。Aでは@の約束が単に個人にとどまらず,人が共通してもつ社会的な認識であることが知れる。《意味》とは広く言えば,「世界観」とか「倫理」と同義となる。
 人間は《意味》という深さ・厚みを与えられた共同体的世界の中で生きており,このような《意味》の深さの中で生きることが,普通「人間的」とか「常識」とか呼ぱれていることの実体である。人が意味を求める心は,人間的に生きたいと思うことの現れであり,それは至極当然のことである。
 また,言葉の芸術としての文学が描くのも,文章を裏打ちしている社会的・人間的な《意味》の厚みである。絵画においても《平面》の裏に作者の個性や人間性が感じられるからこそ芸術として成立していたのである。
 それに対して「ノンセンス」は,その言葉とものの関係を切断するのである。〈意味するもの〉と〈意味されるもの〉を切り離し,〈意味されるもの(シニフィエ)〉を抹殺する。そして表面しかない世界を作りあげるのである。
 「ノンセンス」は言葉(観念)が持っているはずの真の内容=「世の中の意味—美や豊饒や愛など人間的な情緒や,有機的な統一をもたらすもの」を「タブーとして忌避する」(4)のである。
 そこで残された表面だけの世界とは,一般的には非人間的とされる世界であろう。普通《表面的》という形容詞は蔑称としてしか用いられない。しかし,それを意図的にすることによって,従来考えられていた人間性や意味の観念に異議を唱えることに意味があるのである。
 自己の同一性,自己と世界の《意味》を認識することは近代的自我の世界であった。ところがこの近代合理主義は行き詰まりを露呈したのではないか。近代的アイデンティティなどというものは今や重荷となり,その保存に疲れた人々には,意識の奥でその放下による開放への暗い憧れが鬱積しているのではないか。
 全てのものが現れると同時に既視感に飲み込まれる現代にあって,どんな言葉が残っていようか。私たちは今,存在や可能性や人間性などというものをはたして「求めること」ができるだろうか。前章で筆者が陥っていた「自らの存在に関わる危機感」とはこのようなことであった。筆者にあっては近代的な意味での「私」(現実的なリアリティ)はすでに意味を持たなくなっていた。したがって芸術における「表現」も信じられるものではなかったのである。
 このような意味の崩壊は,文学ではサルトルのロカンタンの〈嘔吐体験〉や,ペケットのワッツの〈し瓶体験〉など「意味の裂け目から無意味の淵を覗き込む」体験となって現れる。ベケットの「表現すべきものが何もなく,表現すべき手段がなく,表現すべき根拠がなく,表現する力も,表現したい欲望もなく,ただ表現しなければならぬという強制だけはある表現」(5)という言葉が時代の精神的苦悩を如実に表している。
 現代にあって,あえて表面としてのみに終始し,「意味」に肩透かしをかけてしまう「ノンセンス」の戦術とは,このような時代に対するラディカルな抵抗である。前述の高橋による「ノンセンス」の「新しい《意味》」とは,ここでは近代的自我への批判と,それによる人間の開放である。
 したがって「ノンセンス」は単に「無意味」を標榜するのではなく,「意味」という問題を問うことによって,「意味」と「無意味」,「個性」と「非個性」,「深層」と「表層」という二元論を克服し,そこに風穴をあける試みと考えられる。
 「近代的アイデンティティの保存に疲れた」筆者にとって,この「ノンセンス」の概念とは,精神病的な狂気を孕みつつも筆者を開放する大切な概念となったのである。

「ノンセンス」の方法

 「意味するもの」からその内容を抜き取る「ノンセンス」の方法とは,洒落や同語反復やなぞなぞなど遊戯の活用にあるであろう。
 ここにその具体的な例をいくつかをあげてみる。

  • シュールレアリズムの説明に必ず引き合いに出される,「解剖台の上のミシンとこうもり傘の出会のように美しい」というロートレアモンの言葉のように,なんの理由(内容)もなく単語や語句を並べること。「先天的秩序の不在」と言ったらよいか。
  • 上記のような《混沌》を「閉ざして」,形ある世界として成り立たせるために,脚韻(ライム)という規則を与えると,
    ソロモン・グランディ
    生まれたのがマンディ
    名づけられたのがテューズディ
    結婚したのがウェンズディ
    病気になったのがサーズディ
    悪くなったのがフライディ
    死んだのがサタディ
    埋められたのがサンディ
    それでおしまいソロモン・グランディ
    という「マザー・グース」の唄になる。脚韻(音=形式)が内容に対して専制的な君主となっている「ノンセンス」である。
  • 童謡集「マザー・グース」は周知の通り,「ノンセンス」の宝庫である。
    おばあさんがひとり
    丘のふもとに住んでいました
    行ってしまっていなければ
    きっとまだそこにいるでしょう
    という同語反復(トートロジー)は,《センス》に対する批判となっている。
  • 同じく童話の部類で,「不思議の国」や「鏡の国」の「アリス」は,一見でたらめでてんやわんやのドタバタ劇にみえるが,その背後に恐ろしく厳密な法則性を蔵しているノンセンスである。例えば「ハンプティ・ダンブティ」は,なぞなぞ=「マザーグースの唄」の答えである《卵》が体となって出現したものであり,その「ハンプティ・ダンブティ」は,言葉に自分が思ったような意味を持たせよう(言葉の専制君主になろうと)とする。
     「チェシャー猫」にしても「海亀もどき」にしても,登場人物達(?)は,ルールとしての厳密な法則性,論理性に従いながら決して奥の探みには入り込まず,現実から隔離された世界で二次元的に自足している,まさに「ノンセンス」の申し子である。
  • 前稿で述べたように,「ダダイズム」は近代的秩序の破壊のために「ノンセンス」を重要な方法としている。トリスタン・ツァラが辞書にナイフを投げ,突き刺さったとされる『ダダ』という言葉自体「ノンセンス」の産物である。
  • ジャスパー・ジョーンズの「旗」は,「旗」は「旗」であるという同語反復の手法である。ウォーホルの「コカ・コーラの壜」も同様。
 エリザベス・シューエルが「単語をチェスかトランプのカードか点棒のように分析的に操り,順列・組み合わせのゲームを楽しむこと」(6)と言うように,自らの約束ごと(ルール)により虚構を作り上げ,その一貫した自律的世界を築くことが「ノンセンス」の方法である。そこは,現実世界の災禍から隔離された「閉ざされた場」となる。この遊戯による現実の遠隔化こそ〈現実の実体性の否定・消去〉=「意味するものの消去」により〈表層としての世界〉を構築するための主要手段である。
 前述のように,表現とは不可能な行為であるという確信に憑かれた筆者にとって,「ノンセンス」の絵画的解釈によって「閉ざされた場」を作るという方法は,リアリティ=意味の問題を棚上げにする表現として(ということは「表現しない表現」への手段として),筆者にできる唯一の絵画手法となったのである。

[註]

  • (2)高橋康也『ノンセンス大全』(晶文社,1977)p.16
  • (3)@,Aともに広辞苑より
  • (4)高橋 前掲書 p.96
  • (5)サミュエル・ベケット(片山昇 他訳)『詩 評論 小品』(白水社,1972)
     p.232〜240「三つの対話」より
  • (6)高橋 前掲書 p.96
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