芸術論集/絵画制作の理念とアクリル技法をめぐって・2

絵画制作の理念とアクリル技法をめぐって(1)[2]

 On the Concepts of Painting Works and the Acrylic Techniques (Part1)
 (島根大学教育学部美術科教育研究室/美術論集第1号/平成6年7月)

3.自己の絵画理念の構築

 前章で述べたことは、いわば筆者が受けた「洗礼」であった。今後とるべき絵画の形式はないのではないか。にもかかわらず、過去の作品を参照して作品を制作することには意味はない。新しいものを信じそれに忠誠を尽くさなければならないというモダニズムの思想(「アヴァンギャルド」の概念)は筆者の中にもしっかりと定着していた。そのため、前にも後ろにも進みようがない袋小路に陥っていた。その時、細い道筋があることを示してくれたのが、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns 1930—)からポップアートにつながる系譜であった。

ジャスパー・ジョーンズ

 ジャスパー・ジョーンズは筆者を絵画につなぎとめた点で重要な作家である。
 ジョーンズはデュシャンが網膜的に過ぎるとして棄てた平面という形式に、「イリュージョン」と「事物」の関係の中で新しい意味を与え、内容的には「表現」と「無表現」(「個性」と「無個性」)という背反する両義性を作品として提示した。
 彼は「旗」や「標的」などの日常物をダダの方式により取り入れ描いたが、「旗」、「標的」、「地図」、「数字」などもともと平面であるものを、わざわざ描く行為との関係において、平面形式上の「オプジェ」にしたてあげ、絵画的イリュージョンと事物との間でどちらともつかない「すれすれ絵画」を現出させた。
 ジョーンズは事物によって自らを限定し束縛しており、そこに冷淡な虚無と無関心が示されているが、それが「不思議な不在の美しいヴィジョン」(5)と呼べる豊饒な画面空間を生み出している。それは抽象表現主義的な筆触に求められようが、東野芳明はこの筆触の繰り返しが、「自我を消去し、記号的な虚無の世界を築きあげるためにこそ捧げられる」(6)としている。たしかにジョーンズは、一方では事物化のために「隠蔽」することを宿命づけられていた。しかしもう一方で、彼は「記憶の弾幕の裏で現前の欲求に身を焦が」しており、「彼のタブローは、不可視の現前を欲するスパイの目(の不在)で重苦しく充電」(7)されていたのではないか。ジョーンズは非個性的な記号を平面に写しかえ、自我を消し感情移入を拒否し、作品を事物化したが、そうしながらも真の主題は我にありと密かに自負し、苦悶しているのではないか。あの筆触のせめぎ合いとは、自らの現前の欲求とその隠蔽との葛藤が幾重にも折り重なってできたのではないか、と考えるとき筆者は「表現」と「無表現」の息のつまるような相剋に身が震える思いがするのである。
 彼の作品は、いみじくも峯村敏明が「倒錯の絵画」と呼んだように、今日の絵画の矛盾そのものである。筆者はその中に、袋小路に居直りながら新しい道を開く可能性を見出した。そして長い間、ジョーンズのエピゴーネンであった。しかし、ジョーンズを表面的に模倣し、例えば地図のようなものを平面的に描こうとしても、似非リアリズム絵画のようになってしまうのである。

ポップアート—その理念的側面

 ポッブアートの代表的存在、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol 1928—1987)は、コカ・コーラの壜、キャンベルスーブの罐、マリリン・モンローなどアメリカ消費文化の偶像を、シルクスクリーンで一つの両面に繰り返し転写した作品で知られている。ウォーホルをはじめ多くのポップアーティストは、ジョーンズのように事物ではなく、マス・メディアに氾濫するイメージを用いているが、それを媒体としているため反イメージ的であり、やはり絵画を事物化している。
 しかし、ポップアートにはジョーンズのような重苦しさはない。工業的に均質に塗られた画面は.あっけらかんと白痴的であり虚無的である。そこに人間的な葛藤の跡は見られす、その分、より「表現」から遠ざかり「諦観」さえ漂っているように思える。
 ポップアートがよく知られた日常的イメージそのままであるからといって、絵画が現実、大衆との接触を恢復したと考えるのは浅薄過ぎる。彼らは日常のイメージをサイン(記号)あるいはサインシステムとして“引用”しただけである。(8)ポップアーティストたちは芸術を現実と触れ合わせることが出来ないと考えたからこそ、その認識の深化のために現実を全面的に受け入れたのである。
 彼らのあからさまな完全肯定は、この芸術の不可能性を認識した制作者からの一つの挑戦であると筆者は考える。彼らはこの完全肯定によって自らを鏡のように「無化」する。その結果、彼らの浅薄で内面的深みを欠く作品は.アイロニーとして人間の甘ったれた内部に対する弔鐘を響かせることになる。この自己放棄と居直りこそポップアートの芸術的意義である。

ポップアート—その形式的側面

 ダダ以来の芸術を考える際、常に「美術作品がその対象とどれほど接近し得るものであるか、その際どこまで同一性を防ぐことができるか」(9)が問題になっている。
 ポップアートは量産されるイメージと日常品を、マス・プロダクションの視覚的な言葉に基づいたスタイルで再現する。ウォーホルはシルクスクリーンによりマス・ブロイメージを繰り返し刷り、リキテンシュタイン(Roy Lichtenstein 1923—)は漫画のドットまでをそのまま拡大して描く。すなわち、スタイルと主題を一致させることにより、対象との同一化にせまり表現に挑戦している。
 しかし、芸術が対象と一致しないなにものかである限り、そこに何らかの操作かあると考えられる。ウォーホルの場合、同形の繰り返し、微量のハンドペインティング、高い質をもちなから美醜、快不快の基準のよそに存在している色彩などがあげられる。これらは作品に独特の存在感をもたせ、最終的には彼のスタイルになっている。
 このスタイルはもともと自らの創造性を放棄するために使われたものだが、結果的に作品に個性的な質を与え、ボップアーティストたちのトレードマークになる。そして彼らはそれを繰り返す。これは矛盾である。しかし、反芸術的でありながら芸術家である以上不可避の矛盾であろう。
 芸術を日常の位置まで下ろし、またそこから何らかの方法ですくい上げる、極めて知的な「仕掛け」がポップアートの裏側にある。

 筆者はポッブアートに現れた理念とスタイルが、平面芸術が近代を超克するための必然の結果であると考え、自らの制作の基本的骨格をポップアートに負うこととなった。

[註]

  • (5)東野芳明『現代美術 ポロック以降』(美術出版社、1976)P.265
  • (6)東野/同書/P.261
  • (7)峯村敏明「ジャスパー・ジョーンズ〈倒錯の絵画〉」『みずゑ No.858』(美術出版社、1976)P.42
  • (8)1980年代、ポスト・モダンの重要な方法論となったアプロプリエーション(Appropriation=流用)の先駆はポップアートである。
  • (9)カーリン・トーマス(野村太郎訳)『20世紀の美術』(美術出版社、1977)P.299
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