芸術論集/絵画制作の理念とアクリル技法をめぐって・1
絵画制作の理念とアクリル技法をめぐって(1)[1]
On the Concepts of Painting Works and the Acrylic Techniques (Part1)(島根大学教育学部美術科教育研究室/美術論集第1号/平成6年7月)
1.はじめに
人は、ある美術作品に接し感動を味わうことで、芸術の意義を感知することができる。しかし、直接的、本能的に訴えかけるその作品の構造を説明することは、極めて困難であることをよく知っている。だれもがその感動の真実を言いつくせないもどかしさを味わうだろう。S・K・ランガーによれば、芸術作品とは「言葉では言い表せないものを明確に意味づける非論弁的シンボル、つまり意識の論理そのもの」(1)ということになる。
この前提に立ち、なおかつ一制作者が自作について語るとすれば、その行為に後ろめたさを感じない者はいないであろう。いかに尤もらしく説明したところで、それは創作の内部の真実に向かうどころか、「自己が自己に裏切られていることを感知・告白する」(2)だけではないかという自己欺瞞の意識は拭えない。制作者にできることは『ゴッホの于紙』にあるように「『百姓は百姓でなければならぬ、坑夫は掘らねばならぬ、』画家は描かねばならぬ。」(3)という覚悟のみであろうと思われる。
それでもなお、自己の創作の内部を語ることに意味があるとすれば、その制作の「秘密」=「芸術の始原に向かうノスタルジアの精神のさまよい」(4)に少しでも光を当て、道を造ろうとする自己解明の願いしかないように思われる。そのことはまた、過去・現在の自分を検証することにより、未来を予見することが出来るのではないかという、強欲な制作者の魂につき動かされていると言えないこともない。
この拙文は、筆者が制作を始めた時点に立ち戻り、最初の作品に至るまでの「軌跡」を自ら検証する試みである。制作に至る精神的葛藤の過程を再現することで、創作の伝達の不可能性を超克出来るわけでないことは明白であるが、これが一制作者として出来る正直な態度の一つであると考える。必要上、美術史上の流派や作家について多く触れるが、その解釈の正否についてこの場で考察することは目的としておらず、一制作者がどう受けとめどう影響されたかという観点から理解していただきたい。
2.初制作時の状況
筆者が図版に載せた作品「16 CUBIC STUFF」(図版1)のシリーズ(「CUBIC STUFF」シリーズ)の第1作を制作したのは1979年である。その時点まで美術系の学生として自分の絵画を模索していた。本章ではこの作品に至るまでの道筋の中で、美術史上で筆者が影響を受けた事柄を「理念」の面を中心に追ってみたい。
「絵画理念」という問題
「神」という超越的存在を失った近代以降、芸術の主題は「自分」であった。モネ(Claude Monet 1840-1926)にせよ、セザンヌ(Paul Cézanne1839-1906)にせよ、またピカソ(Pablo Picasso 1881-1973)にせよ、その画面が主張しているのは、画家である「自分」のものの見方そのものに他ならない。そして「自分」が主題になったとき、絵画は絵画制作という行為自体を問題とし、自己目的化していった。近代絵画の歴史とは絵画の自律化(純粋化)の歴史である。「写実」という理念を追い求めた印象派は、その手段においてすでに「現実離れ」の道を踏み出し、その後は絵画が他の一切の意味を背負わず、絵画そのものとなるために、普遍性と内面性の論理が「造形性」という「拠りどころ」のもとに、抽象表現へと展開していった。
以上はよく知られたことであるが、近代以降、この「理念」、「拠りどころ」を求め続ける人間の自我が絵画を動かし続けたと言ってもよいであろう。近代絵画においてあった「写実(リアリズム)」や「造形性」という理念は、当然のことながら近代社会の人間の自律や真理の探究などの文化、思想とともに生まれ、変遷してきたものである。しからば、現在いかなる「理念」のもとに絵画制作を行うべきであるか、ということがその制作の出発点で求められることとなる。
制作者が「理念」を求める心とは、自らの生き方を芸術にかける意欲の反映である。筆者が近代絵画と触れ合うことで見出したものは、その作品の素晴らしさとともに、絵画とそれを求める人間の人生とののっぴきならない関係であった。
特権を失った画家
現代の美術界の難解さと混沌に先鞭をつけたのはダダイズム(Dadaism)である。ダダは70年以上も前、20世紀初頭(1916-1923)に台頭した運動であるが、ちょうど近代を理解するためにセザンヌを通らなければならないように、ダダに言及することなしに芸術の物質化、現実化、非人間化といった今日の特徴を理解することは不可能である。
ダダとは周知の通り、過去の一切の文化的価値、伝統、理性への信頼を否定し、とりわけ芸術を根本から否定する芸術崩壊運動である。マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp 1889-1968)が便器に「泉」と題して展覧会場に運びこんだという象徴的行為により、芸術は際限なく拡大され「芸術作品」は聖なる祭壇から引きずり下ろされた。
しかし、芸術が消えてしまったわけではない。デュシャンの場合も、日常品そのものを提示することで芸術とは何なのかと問うたのである。そこに「泉」と題すること、「R.Mutt 1917」と署名をすること、展覧会場に運びこむことにより、そこに記号論的な意味内容の変革を与え、日常品の合理的意識を破壊する物体の在り方を示したのである。「オブジェ(仏・Objet)」とは、芸術思考を内在した日常品である。
この後は、制作することは芸術であるという前提に立てない、ということが大前提となる。したがって提示物(作品)により芸術そのものの解釈を示す—表現とは何かという問いに自分なりの回答を与えるということにならざるを得ない。芸術家は芸術という特権を失ったのである。
ダダとは芸術の権威やオリジナリティといった芸術的特権をせせら笑う「精神」のことである。それは、自我や自意識といった「私という絶対性」にまみれた人間の救済のため、「無意味」や「自己放棄」を提示する運動であったと筆者は理解する。筆者自身「意味」や「本質」などの解決不可能な問題の中で「堂々廻り」を繰り返していた状態にあったとき、このダダの「偶然を神とする」ようなニヒリスティックな精神はカタルシスとなった。また「内的必然性」といった魂の放棄によりダダの切り開いたノンセンスなユーモアは、筆者の制作の拠りどころとして意味を持つものとなる。そして何よりも、自分が一個の「何者でもない」ものにすぎないのだという自覚を与えてくれたのがダダであった
絵画の危機
ダダの運動の結果として、従来の自律的な、あえて言えば職人的な創造過程とそれにともなう技術(メティエ)は必要のないものとなった。このことは、例えば技術を身につけるべくデッサンに励む画学生を無力感におとしこむに充分である。
さらに、1950年代の「アクションペインティング(Action Painting)」は、絵画に最期の一撃を加えるような象徴的なスタイルであった。ジャクソン・ポロック(Jackson
Pollock 1912-1956)を代表とする「アクションペインティング」は、自我の美的造形を試みた近代の純粋な抽象と異なり、“描く”という行為の過程そのものを問題とした。
ポロックの作品は「ドリッピング」という「行為」の痕跡でしかない。このことは、出来上がった作品という結果よりも、「行為」なり「動作(ジェスト)」のほうが一層本質的なものだということであり、そうなればその「行為」や「動作」が必ずしもカンヴァスに向かって行わなければならないものではないことは自明である。従って、その後「ハプニング(Happening)」、「アースワーク(Earth Work)」といった「行為」そのものが作品となる芸術が生まれる。ここで絵画は自己を支える実体としての「作品」を失ったことになる。
現時点(1994)から70年代当時の状況を振り返れば、一方に近代以来のフォーマリズムを継承する「ミニマルアート(Minimal Art)」があり、またダダの遺産を引き継ぐ
「ポップアート(Pop Art)」や「コンセプチュアルアート(Conceptual Art)」などが多元的に存在していたということになろう。また、この時点では美術のジャンルの独自性は崩れ、相互浸透が始まっており、その意味では「近代」は崩壊したと言えよう。その中で筆者が肌で感じていたのは「絵画は終わった」という雰囲気であった。「ダダ」や「アクションペインティング」に続き、日本の50年代の「具体美術(1954-1972)」や60年代の「ハイレッドセンター(1963-1964)」などの途方もない活動を知った後では、もう絵など描いている場合ではないなと思わざるを得なかった。事実、筆者の周囲でも絵画を捨て立体に変わったり、制作を断念する者が多かった。筆者が絵画(平面)を離れなかったのは何故だかわからない。「平面的人間」だからなどと言っても答えにならないであろうが、今では運命のように感じている。
[註]
- (1)寺尾勇『美の論理 —虚と実の間—』(創元社、1975)P.103
- (2)寺尾/同書/P.127
- (3)小林秀雄「ゴッホの手紙」『小林秀雄全集第十巻』(新潮社、1974)P.45
- (4)寺尾/前掲書/P.127