芸術論集/現代絵画の可能性に関する一考察4

現代絵画の可能性に関する一考察[4]

 A Study on the Possibility of the Contemporary Paintings
 (島根大学教育学部美術科教育研究室/美術論集第10号/平成16年3月)

4.筆者の絵画理念と手法

 さて、筆者自身の制作についてであるが、前章まで述べてきたことは、筆者自身の絵画観——ポストモダン美術の理念を絵画形式のなかで展開するということ——をいくつかの著述や評論家、作家の言葉をもとに、客観化して検証しようとしたものであった。
 前述したように、美術の理念を「思考やそれを媒介とする行為」とすれば、その表現形式はおのずとビデオやインスタレーションなどに傾くわけであるが、筆者はポストモダンを生んだ人間像としての観点に戻ることにより、その絵画的表現を見いだそうと試みた。その人間像としての観点とは、自我を解放し他との交感のなかで生きることを模索するものということであったが、その意味を絵画形式にすれば「自己完結する絵画ではなく、自己と他・外界(世界)とを往還する関係をとらえる絵画」であると考えた。(カラー図版)(図版12)
 今までの絵画は作家の世界像を表すための場としてあった。その世界像の独自性や意味の強さが絵画の力であり、そのためには構成と色彩により完結したものでなければならなかった。またその作家の自我を読みとることが鑑賞の姿勢であった。
 今、筆者が求める絵画はその関係を壊し、作家は自ら創造するのではなく、外界から生じるものをすくい上げることによって画面を生みだし、また鑑賞者は作家の表現を読みとるという行為でなく、画面から直接的に受け取ることを通して作家と交感するというものである。そうした外界——作家——鑑賞者を円環しながら結ぶ絵画を考えている。そのような絵画をめざして筆者が取り組んでいる制作方法について記しておこうと思う。
 自我の反映としての画面から逃れる方法として、まず塗ることと削ることの繰り返しの作業がある。上記のような理念を実現させるためには、作ることで意味として見えてくるものを絶えず消去していくことが必要であり、そのために作りながら壊すことを繰り返すこととなる。実現を期待する自我に自ら背き、常に画面が意味を生成する前の状態に置いておくことが制作の基本となる。その中で何らかの世界(空間)が現れるのを待つわけであるが、そのきっかけとして、下地や塗り重ねの中でいくつかの凸凹となるものを施す。例えば、下地として綿布をランダムに張り合わせる、モデリングペースト等の盛り上げ材でドリッピングやストローク跡をつける、布や紙等を貼る、それらを剥がす、絵具をたらす、水を流す等である。塗ることと削ることの繰り返しの中で、これらの下地の跡に筆やサンダーが引っかかり偶然に空間や像(形象ではないもの)が生まれ出てくる。筆者はそれらの仕掛けで自然を目に見える姿にし、またその発生したものに導かれながら次の発生を促すものを探るのである。
 ある程度「場」としての空間が生まれてきたと感じられると、筆者はそこに線や面、ぼかしなどの具体的要素を描きこみ、空間をより満たしていく作業をする。それはその前の作業と同じく無作為、無関心、オートマティックに近い状態で、純粋な絵画的出来事として定着するよう願いながら描いている。自分の感覚と身体の震えからそのような跡が刻まれ、それがキャンバスという媒体を通して鑑賞者に直接伝わるよう——再びサイ・トゥオンブリ論の印象的な言葉にそって言えば「私の身体が他の身体を誘惑し、熱狂させ、あるいは、混乱させる」よう(22)——にという感覚である。
 このように自己を開放し、全身が感覚器官となって外界の言葉を聞きながら受け取ったものを、無作為のうちに画面に伝えることにより、生成力をもった絵画が生まれると考える。
 もちろん色や形について自我が働かないことはないし、これらの方法は意図したものではあるが、前述のように絵画の予定調和的なイメージの否定を目的としているわけであるから、常に方法に疑問をもち技法を確立しないことこそが方法であると言える。
 筆者にとって絵画は世界と繋がるための媒体である。自己実現と自己滅却(予知と未知)のはざまでなされる制作の繰り返しのなかで、最終的に「私」が外界を受け入れ、外界が「私」を受け入れて飽和状態に達したとき手が止まる。それは「私」が自分を包んでいる世界と等質になり、自分が外側に溢れ出ていくときである。——と修辞上はこう言えるが、実際にはこうした内部と外部の視線を渾然一体とすることは困難なことであり、まただからこそその葛藤が現在の筆者の最も興味あるところである。まずは永遠に調和されることのない制作に向かう覚悟と忍耐がいるだろう。作品は作者を裏切る。そのたび作者は作品に近寄っていかなければならない。そうすると作品は逃げていく。それをまた追いかける。ときには脅したり、すかしたりもする。ひざまずくこともあるだろう。そうしているうちに以外と近くに作品がきているかもしれない。そんな追いかけっこの繰り返しである。その中で「私」が消え、「誰のものでもない跡」が刻み込まれることを願っている。

おわりに

 本稿のポストモダンの解釈が正しいかどうか確信はない。もちろん単純化しすぎているし、不備があるのは承知している。実を言えばもとより「ポストモダン」の解釈にこだわっているわけではない。
 筆者は他の多くの制作者同様、自らの制作に引き込んで思考する強欲者であるから、自分の制作理念構築の中で、ポストモダン思想を都合よく解釈して取り入れただけかも知れない。開き直って言えば、論理の整合性より制作のエネルギーとなる実感のほうが大切なのである。ともかくも現在、筆者の制作理念とスタイル(スタイルならざるスタイル)はこういったものである。
 本文中に書いたが、筆者が最も問題とするのは近代的自我の超克である。ポストモダンをモダンと完全に縁が切れたものと解釈すれば、筆者はポストモダンの作家ではなく、レイトモダンの作家であると思う。
 最終的に構成としての意識を逃れることができるのだろうか。「なるべく無作為、無関心、オートマティックに近い状態で」描くとは言っても、例えば一本の線を引く時、そこには完結性を目指す構成的意識が否応なく含まれていることを感じざるを得ない。
 前章で方法に疑問をもち技法を確立しないことこそが方法であると言ったが、こうした制作では感覚と方法とが混然一体となって、出来上がるともなく出来上がるのが理想であろう。現在の時点では段階的な制作工程があるため、意識が勝ち構成に向かうのはやはり避けられない。そのあたりが筆者の課題である。
 しかし結局のところ、自我と完全に決別できる人間はいないであろうから、前述のように画面が筆者に働きかけるものと、筆者の空間や線をコントロールしようとする意志との葛藤があるのが当然で、その関係性が作品を作り上げていくこととなろう。それこそが筆者と外界との緊密で喜ばしい対話であり、今はそれを自分の作品とすることが自分の絵画だと思っている。
 筆者の20年以上にわたる制作の中で、つい数年前までは、近代を批判する手段として、意味をすべて無化するノンセンスで無表情な制作を強いられてきた(自らが自らに強いてきたわけであるが)。こうした逆説的な表現でしか絵画制作ができなかったことを考えると、今、「時間と空間が収斂する磁場」とも言える真の絵画性を信じて制作できることはそれだけでも喜びにたえない。

[註]

  • (22)ロラン・バルト「ロラン・バルト美術論集」(みすず書房、1986)P.101
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