芸術論集/現代絵画の可能性に関する一考察3

現代絵画の可能性に関する一考察[3]

 A Study on the Possibility of the Contemporary Paintings
 (島根大学教育学部美術科教育研究室/美術論集第10号/平成16年3月)

3.新しい絵画の成立と解釈をめぐって

 前章で述べた絵画作品の成立の秘密とその解釈について、これらの作品を支持する評論家たちの言葉と、当の作家たちのコメントから探っていきたい。
 まずは前章にあげた展覧会のなかから、VOCA展の図録より評論家の解釈をピックアッブしてみる。

 「…タブローそのものの顕在化と現象性の中で、絵は初発的なおののきに満ちている。——固定化したイメージを描くことなく、時に光輝く禁欲的にして複雑微妙なその画面は、そのままにして出現性自体を示し、打ち震えるように『絵画』への道を辿っている。」(9)(加藤学に対して天野一夫)
 「消すことで描く。村井は、いわば逆説的な方法にこだわって絵画の在り方を問う。——絵画自体から生まれてくるものをつかもうとする志向。村井の作品はそういう意図で裏打ちされている。」(10)(村井俊二に対して山梨俊夫)
 「現実的なものの『形』に頼らないのは、絵はもっと全体的なものであるべきだと彼が考えているからであり、また抽象化された空間のなかから何かが現れくるのを待っているからである。」(11)(大友洋司に対して千葉成夫)
 「画面に何種類かの色彩を塗り込め、画面全体が、均質な状態にいたるまでに生じる微妙で繊細なマチエールを如何に保ちえるかを試みる(際限のない)行為。——画家の精神性と無垢の白い画面との絶え間無い会話に時間が費やされることによって実りのある成果を生んでいる。」(12)(小川佳夫に対して天野太郎)
 「(吉川の制作はキャンバスを前にして自己を無意識へと開こうとしており、)カンヴァスと画家とは、相互に働きかける/働きかけられる関係にある。」(13)(吉川民仁に対して菅原教夫)

 どのコメントからも、作家がキャンバスとの、または観客との弛まない交感のなかに絵画の在り方を模索していることが窺える。上記の作家がみな同じ理念や志向で描いているとするのは暴論だが、そのなかで「絵画がどこからか降りてくるのを待っている」「絵画の出現自体に立ち会う」感覚がみなこれらの作品に見られることは共通して言えるのではないだろうか。
 それは時には「絵画の神があったとして、それが何を思ったか、たまたま赤塚祐二という一個の人間を経路として選び、地上に顔をのぞかせてみせたのだ。」(14)というように、主体としての作者を消し去り媒体としての作者を感じさせる様態へと鑑賞者を導く。
 このような感覚は他の芸術家についての著述にも見られる。例えば即興演奏で有名なジャズピアニストのキース・ジャレットのローザンヌのコンサートでのノート「この演奏は私という媒体を通じて、創造の神から届けられたものである。」(15)という言葉とまったく同様の感覚である。あるいはロラン・バルトの「サイ・トゥオンブリー論」にある「(絵画を)何ものかが到来する舞台」(16)として捉えることと相通ずるものであり、このような感覚が現代の生と芸術の感覚を伝えていることが窺い知れる。
 これらの記述を総合してみると、自らが創造するのではなく、作家と世界が何らかの手段により融合することによって作品が生まれるという新しい絵画観が考えられる。しかしそれは絵画として成立する何の保証も無いものであるから、一歩間違えれば単なる混沌に堕しかねない危険をはらんだものでもある。
 次に作家自身のコメントを「アクリラート別冊」より見てみることで制作者側の感覚を探ってみたい。
 絵具会社であるホルベインエ業(株)は1986年より若手の作家に絵具等を支給する奨学制度を設けており、その成果を奨学生の作品とコメントで構成した冊子、「アクリラート別冊」により発表している。
 この制度により、今まで18年間で300人以上の奨学生か輩出されており、「アクリラート別冊」にはその数だけ作家の作品とコメントが収められている。したがってその中には様々な傾向、それこそ多元的な作品が散乱しており、彼等のコメントも身辺雑記的なものから美学的、心情告白的、突飛でナンセンスなものまで種々様々である。しかし、それらはどれも正直で素朴な思惟と決意に満ちており、彼等が絵画と対峙する真摯さが直接的に伝わり興味深いものであるばかりでなく、現在の絵画観を探るうえで貴重なものである。
 この奨学生の中にも前述の古川民仁、馬場健太郎、藤澤江里子のほか吉本作次、渋谷和良ら、「『何ものでもない何か』としてのみ捉えられる『曖昧な』絵画」を制作している作家か多く見られる。彼らの多くはまた評論家らによりVOCA展等で取り上げられている。この範疇に入ると思われる作家のコメントを取り上げてみる。

 「描いていく先にあるものは描いていくことでしか理解できない。形が、色が、線が、自分の描こうとするものを払いのけ、別の形を作っていく。偶然とも思えるこういった過程はまさしく生き物の成長に似ている。」(17)(小林正明)
 「白い画布に然るべき行為を始めた途端、たちまち消失していくものと、生まれ出てくるもの。その二者の間に立ち、逃がさず、流されず、桔抗させることに繰り返し挑み、制作していきたい。」(18)(堀部由佳子)
 「私の描く線は明確な目的を持たず何も辿らない。かたちをつくりだそうとすると同時に何にもならなかった線もある。線を引く時、自由と不自由を同時に感じる。」(19)(藤澤江里子)
 「与件として、白いカンバスと自分が対峙する。そして任意の一点からすべては始まる。その一点と呼応して次々と色彩や形態が施される。そして、その絶え間ない逡巡と自己判断の中から絵画は生成していくのではないか。」(20)(水村綾子)
 「次に何が出てくるかは、作りながらでないと自分でも解らない。意識をニュートラルにして、出てきたものをひょいひょいと繋ぎとめるのに集中します。」(21)(齊藤ちさと)
 評論家のコメントにあった、観客にとって絵画自体が立ち現れてくると感じられる画面は、作家としては、先が見えない中でともかくも画面との対話と葛藤を、絵画が立ち現れてくれるまで繰り返す行為からしか生まれてこないように思える。それは決して自分では造りださないことを自分に課している姿勢である。
 それは絵画を自己のイメージに従って作り上げるという従来のものとは確実に異なる。彼等の絵画との関わり方は、視る主体と視られる客体——自分と画面——との硬直した関係を乗り越え、それらが反転や交換しあえる可逆的なものとして捉えており、それに身を委ねることが彼等の精神のあり方となっているのである。また主体としての自我からなるべく距離をとる、つまり表そうとする意志からできるだけ自由になるため、行為の反復により自己の開放と意識の純化を図るという制作態度は彼等の生きる姿勢とも重なっている。
 彼らのコメントにみられる、外界のわからなさと自己との馴れ合い方こそが制作であり、「未知と予知」の狭間に作品が生まれるとき、作品は文字通り「生成され」「現前する」のである。

[註]

  • (9)VOCA展'96「現代美術の展望—新しい平面の作家たち」図録(1996)P.23
  • (10)VOCA展'94「現代美術の展望—新しい平面の作家たち」図録(1994)P.52
  • (11)VOCA展'94/前掲書/P.68
  • (12)VOCA展'94/前掲書/P.60
  • (13)VOCA展'96/前掲書/P.74
  • (14)「形象のはざまに—Among the Figures」展図録
     (東京国立近代美術館、国立国際美術館1992—3)P.22
  • (15)Solo Concerts/Keith Jarrett——Bremen,July 12,Lausanne,March 20,1973
  • (16)ロラン・バルト「ロラン・バルト美術論集」(みすず書房、1986)P.111
  • (17)「アクリラート別冊1995」(ホルベイン工業[株]1995)P.73
  • (18)「アクリラート別冊1996」(ホルベイン工業[株]1996)P.88
  • (19)「アクリラート別冊1996」(ホルベイン工業[株]1996)P.84
  • (20)「アクリラート別冊1999」(ホルベイン工業[株]1999)P.88
  • (21)「アクリラート別冊2001」(ホルベイン工業[株]2001)P.71
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