芸術論集/現代絵画の可能性に関する一考察2

現代絵画の可能性に関する一考察[2]

 A Study on the Possibility of the Contemporary Paintings
 (島根大学教育学部美術科教育研究室/美術論集第10号/平成16年3月)

2.新しい絵画の出現とその様態

 本章では、ポストモダンが前章で述べたような価値として確立したとして、その状況下での絵画の問題を考えてみたい。
 ポストモダン美術では「思考やそれを媒介とする行為」を表現する形式として、ビデオや行為、インスタレーション等が有効となり、従来の伝統的な形式からはかなり離れてしまっている。もともと近代美術が行き詰まり、絵画等従来の形式が展開不可能な時点に来てしまったという認識が、このような美術の拡散につながっているのであるが、現代において絵画形式の価値が低下していることは確かであろう。
 しかし筆者は制作者としてあくまでも絵画形式にこだわりを持っている。それは筆者自らが前章で述べた、モダンヘの固執と超克という問題をかかえながら絵画と向き合ってきたためである。「モダンヘの固執と超克」は筆者自身の絵画制作の危機とその再生という実体験に重なり、そのなかで絵画のあり方——「絵画とは何か」という問題——を常に考えざるを得なかった。
 絵画をその形式の中で再生させようとする試みは、絵画を通して新しく自己と世界の関係を構築させようとするものである。絵画制作が自身の生とのっぴきならない関係にあった——「絵画とは何か」とは、「自分とは何か」である——筆者にとって、当時の袋小路のような状況においても、絵画の旧来からの特質である平面上の時間と空間の表出という問題から逃れることができなかったのである。
 筆者自身が絵画の不可能性の中で、その脱却に向けて喘いでいた70年代から80年代にかけて、野田祐示、吉澤美香、堀浩哉、辰野登恵子らはこの重く苦しい課題と真正面から取り組み、一定の成果と方向性を示した。例えば野田祐示の作品には描くことと描かざること、つまり自我と自然との葛藤が彼の制作方法——凹凸のある支持体を画布で包み込み、そこからオートマティックで力強い形象を発生させる——として現れ、それらの試行は絵画に強靭な骨格を与えている。
 彼らの英雄的な格闘の後、80年代末には絵画の再生を思わせる動きが出てきた。そのことは90年代になって「形象のはざまに」展(1992-93:東京国立近代美術館、国立国際美術館)、「絵画考——器と物差し」展(1995:水戸芸術館)、「視ることのアレゴリー」展(1995:セゾン美術館)、「絵画、唯一なるもの」展(1995-96:東京国立近代美術館、京都国立近代美術館)、「VOCA」展(1994年以降毎年:上野の森美術館)という、現代日本絵画が中心となった展覧会が次々と開催されて、明確に意識されるようになった。それらの展覧会の流れの中で、新しい絵画性の特質が次第に明らかになり、絵画再生の道筋が作られていったのである。
 もちろんこれらの展覧会には多種にわたる絵画形式と理念があり一概には括れないが、筆者が本稿で取り扱いたい作家、すなわち自我を開き自然または他へと拡散する状態を受け入れ、なおかつ絵画形式との葛藤を抱えながら制作している作家の多くが、これらの企画展の主要作家として複数回登場している。
 彼らの名前を列挙すると赤塚祐二、丸山直文、堂本右美、東島毅、長沢秀之、小林正人、根岸芳郎、小林良一、吉川民仁、小池隆英、松本陽子、加藤学、村井俊ニ、大友洋司、小川佳夫、馬場健太郎、野沢二郎、藤澤江里子などである。
 彼らの作品は茫洋としたペインタリーなものであったり、落書きのような筆致が残っていたり、非常に大胆な像が描かれていたり、また単色に近い画面がただ広がっていたりといくつかの特徴がある。
 これらの様態の把握のため、「視ることのアレゴリー」展を企画した杉山悦子の分類を参考に考えたい。杉山は出品作品を次の3つのカテゴリーに分けて、その絵画的性質を捉えている。

  1. 抽象でも具象でもない未知の形が、既成の意味作用から逃れて、独自の視覚言語として発生」しており、「『何ものでもない何か』としてのみ捉えられる『曖昧な』」絵画。
  2. 多重の層に豊かな矛盾を抱え込んでいて、その構造的な層が「不可知な空間」を生む絵画。
  3. 「視線の欲求に逆らい、イメージの定着を拒んで、あるいはそれを先送りにして絶えず変動し、変容し続ける」(8)絵画。
というものである。この把握はこれら未知の絵画の様態を的確に捉えていると思える。そこで筆者が上に挙げた作家全体を、この分類にそって考えてみたい。
 赤塚祐二、丸山直文、東島毅、長沢秀之、野沢二郎らの作品は、ペインタリーで荒々しい筆触が交差する中に、形象とも呼べない形が浮かび上がっている。これらの「既成の意味作用から逃れた未知の形」が広がる絵画は1に属する。根岸芳郎、小池隆英、松本陽子らの作品は、画布にステイニングされたまだらな色彩が茫洋とした光を放っている。また加藤学、村井俊二、大友洋司、小川佳夫、馬場健太郎らはより茫洋としており、そこが画布なのか色なのか空間なのか判然としないものが漂っている。これら「多重な層による『不可知な空間』」を湛える作品は2に属する。堂本右美、吉川民仁、藤澤江里子らはどれもランダムなストロークが見られるが、それらはあてどなく彷徨う不思議な線であり3の「イメージの定着を拒んで変容し続ける」絵画にあてはまる。
 しかしこの分類にあてはめるには、これらの絵画は豊かで多義的かつ曖昧でありすぎる。どの作品も多かれ少なかれその3つの要素を持っていると言ったほうがよいだろう。事実それらはどれもイメージを結ばず意味が見出せないため、掴みようの無い感じを与える——まさにどの作品も「何ものでもない何か」である——ことで共通している。そのなんとも名状しがたい画面は、逆にその不可知さゆえに絵画の発生の神秘と豊穣さを湛えている。
 これらの作品は、平面上に空間と時間を生み出すという絵画としてのまっとうな形式の中で、自我による意味作用としての絵画ではなく、自我を越えた何ものかによって形成されている様相を示している点で、前章で述べたポストモダンの理念に絵画として答えるものとなっているのではないか。またそれだけでなく、これらの絵画は視ることの根源的な悦びを与え、「絵画の豊かさ」を実現している点で、理屈を超えて絵画の新たな力を思わせるものとなっている。
 このような絵画群の登場がポストモダン美術における絵画形式での対応であると考え、今後の可能性を期待するものである。

[註]

  • (8)杉山悦子『語りえぬ未知の現象』「視ることのアレゴリー」展図録
     (セゾン美術館1995)P.23
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