芸術論集/現代絵画の可能性に関する一考察1

現代絵画の可能性に関する一考察[1]

 A Study on the Possibility of the Contemporary Paintings
 (島根大学教育学部美術科教育研究室/美術論集第10号/平成16年3月)

はじめに

 本稿は筆者が絵画制作者として、制作の根拠について自ら検証しようと試みたものである。元来、制作者は自らの立場を作品で示すものであるし、筆者も言葉で制作の内容を客観的に伝え得るなどと思っているわけではない。
 制作者のコメントは多分に自分本位なものとなりがちであるが、もともと制作者とは常に自らの制作との関わりによってのみ、すべての要因を拾い上げる強欲者であり、またある程度そのような自分本位のコメントも許されているのであろう。つまりは作品で責任をとればよいのである。
 したがって本稿も筆者自身の自己確認のために書かれたものであると言えるが、それでも美術史上の解釈やまた現代社会、人間のあるべき姿等の記述において、できうる限り客観性を持たせようと努力した。それは自分が一人で勝手に生きているのではなく、この地上の空間と時間に包まれた一部としてあると自覚したとき、自己の制作理念もやはり、美術史の壮大な流れと現在の生の在り様の交点に生まれると考えたためである。
 また今絵画を制作することが、あまたある絵画の中で自らの位置を定めるという使命をおのずから含むとすれば、それを確認するためには、ある概念や全体像を捉えた上での理念が制作者にも求められるとも言えよう。
 筆者が現在最も問題とするのは、旧来からの絵画形式の枠のなかで、現代にふさわしい、価値のある絵画とはどのようなものかということである。それは筆者自らが制作者として、現代の「生」と「世界」の感触を、絵画を通して掴みたいという意欲から生まれる根本的問題である。
 そのために現代美術の現状として、ポストモダンの理念と絵画形式の関係について考察し、それをもとに自らの絵画制作の姿勢について述べてみたい。

1.現代美術(ポストモダン)の様相

 まずは現代美術の流れ(1950年以降)を簡単に整理しておきたい。それは大きくはモダンからそれを批判し乗り越える美術——ポストモダン——への移行として捉えられる。
 しかしその移行はスムーズにいったものではなく、幾多の葛藤を伴って変遷してきたことは言うまでもない。50年代の新しい抽象の形式としてのアンフォルメルと抽象表現主義に始まり、60年代ではモダンの究極の形式であるミニマリズムに対し、日常性や概念を取り入れモダンを批判し超克しようとするネオ・ダダ、ポップアート、コンセプチュアルアートなどが多様に展開し、その混乱ぶりは苦闘の歴史を如実に物語っている。また70年代のニューペインティングや折衷主義は、新しい展開が見つからない不毛さを露呈しているようにも思える。
 そのような経緯を経て、現在美術上のポストモダンは1980年以降に確立したとする説が一般的である。何をもってポストモダンとするかについては諸説あるが、松井みどりが「Art:Art in a New World」の中で、アーサー・C・ダントーやハル・フォスターなどの説をもとに、ポストモダンについて非常に的確かつ簡潔にまとめているので、ここではその内容を援用したい。
 松井によれば、『モダン』という概念は「理性的にものを考えられる人間を中心とした整合性のある世界観」であり、しかしそれに対し現代は「個人が世界に対して首尾一貫した視点やコントロールを維持できず、むしろその思考や行動が外界のシステムによって方向づけられ、意味を与えられ」(1)る時代である。この状況を「ポストモダン」としている。
 このことが芸術においては、『モダン』は「社会に頼らずそれ自体の存在感をもつ『自律的』な作品の形態や、それを作る作家の意志や独創性を強調する」ものであるが、それに対し『ポストモダン』は「自分の外に存在する世界が自分の意識や制作過程に与える影響について考察する」(2)ものと捉えられる。
 松井はあわせて「芸術を語るときの論点が『形態的自律性』から『思考やそれを媒介する行為』へ移った」(3)とするクラウスの論や、「芸術の意味は、その物質的な姿から、それをめぐる思考や、それが生み出す記録や解釈を含めた経験のネットワークに移され」それは「すなわち『物』を通した『言葉』への芸術作品の意味の拡張」(4)であるとするオーウェンスの「アレゴリー論」を紹介している。ポストモダン美術について簡略にまとめればこういったことになろう。
 このような移行は、もちろん社会文化的な事象としての認識であるが、一方、人間個人としては自我、自意識がすべてを支配し、個別的自立こそが価値であった近代的生き方から、主体と客体の境目をなくし開かれた自我を受け入れる生き方ヘという、「生」の在り様の転換として捉えることもできるのではないか。筆者の実感として近代的生の扱いづらさからの脱却のため、このような精神のしなやかさが求められていると感じるのである。本稿ではこの「生」と「美術」の対応を現代美術の基本認識のひとつとして絵画を考えていきたい。
 ではポストモダン美術とは具体的にどのようなものか。その典型的な例を、やはり「Art:Art in a New World」の中から2つほど挙げておきたい。
 フェリックス・ゴンザレス=トレスの作品「Untitled—A Corner of Baci—(1990)」は、観客がトレス自身(と友人、ロス)の体重の分だけキャンディを壁際に好きな形で積み上げ、そしてそれから1個ずつ持ち帰るという観客参加型の「インストラクションアート」である。この作品では、トレスが作らせたキャンディの山は観客が持ち帰るたびに姿を変え、ついにはなくなってしまう。しかし逆にその記憶は、1つ1つのキャンディとともに参加者の心の中に浸透していく。その関係性を作品としたものである。
 ここでは前述の、その姿・形が問題ではなくて、それを巡る思考や解釈に基づき、その場で起こる出来事が作品であるとするポストモダンの解釈が成立する。
 「トレスの主体というのは、人との日常的な関係性のなかから表現されるもの」であり、その作品は「観客が生きている空間をより柔軟に把握するための『発想の転換』を提案」(5)するものであると松井が言うように、そのとるに足りない出来事が、生きていることをハッとさせる形で気づかせる作用を持っている。良質なポストモダン作品とは、日常的なものを通して人が生きていく空間や時間 を、新鮮にまたかけがえのないものとして捕らえるための契機となるものである。
 ダグ・エイケンのビデオ作品「ダイヤモンドの海(1997)」は、かってダイヤモンドが鉱掘されていたアフリカ南西部のナミビア砂漠の無人の海岸で、採掘機だけが回っている姿を撮ったものである。特徴的なのはその編集の仕方で、イメージが次々と<音楽のように>与えられるため、観客は意味を追えず「画面を満たす光や空気感、感情や知覚に直接訴えかけるイメージの力だけが実感として残る」(6)仕掛けになっている。
 松井はエイケンの作品を「決まった主体を持たない主体」として「分裂症的」という新しい主体性のモデルを示し、そのような「主体と客体の境が崩れた世界」は「自分を規定するさまざまなものから限りなく自由になり、世界に対して心も知覚も開いているポジティブな」(7)状態としてその意義を捉えている。
 このような作品からは、自我・主体の呪縛から自由になり、他との関係性の中からしなやかに自己を捉えようとするポストモダンの人間像・世界観が伺える。それは前述のように現在求められるものであり、現代美術の根幹をなすものであると思う。
 しかしこれがまた簡単なものでないことも確かであろう。モダン絵画の影響をイヤというほど受けて1970年代後半に制作を開始した筆者は、その時点ではモダンを批評する、すなわち自我の拡張に歯止めをかけ、その表出を自ら拒むような制作を強いられる時代的状況の中にいた。それは身を切られるような過酷な体験であったことを付け加えておきたい。

[註]

  • (1)松井みどり「Art:Art in a New World」(朝日出版社、2002)P.37
  • (2)松井/前掲書/P.37
  • (3)松井/前掲書/P.41
  • (4)松井/前掲書/P.44
  • (5)松井/前掲書/P.141
  • (6)松井/前掲書/P.173
  • (7)松井/前掲書/P.176
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