芸術論集/Japanese Contemporary Painters[4]―シートン・ホール大学での講演より―

Japanese Contemporary Painters[4]

 ―シートン・ホール大学での講演より―
(島根大学教育学部美術科教育研究室/美術論集第5号/平成11年3月)

4. Part.3の作家について

 Part.3では日本国内で人気のある、主に具象傾向の作家として有元利夫、山口啓介、星憲司、玉川信一の4名を挙げたが、ここで筆者が人選の対象としたのは次のような枠内の作家たちである。
 日本独自の展覧会の制度である公募展。その中でも在野系の公募団体とその頂点としてあった安井賞展の入賞、入選者。現代日本美術展など日本全国にあるコンクールの入賞、入選者。公募展という日本独自の制度の功罪はいろいろあろう。在野系の公募団体の作品は、第2章で述べたように旧制度としての絵画の枠から抜け出てはいないし、その中で設立当時の精神や理念は薄れ、類型化した表現も多い。しかし「現代」を表現しようとする意欲はあり、それが様々な表現として現れている事は、良かれ悪しかれ日本の現代の状況と言えよう。
 安井賞展と現代日本美術展とでは出品作品の傾向はかなり違う部分と重なる部分とがあるが、その両方に入選し得るような作家を、日本的な表現スタイルを有しつつ現代性をも兼ね備えているものとしてピックアップしていった。
 具体的に「日本的な表現スタイル」なるものを特定することは不可能に近い。各作家の非常に閉ざされた極私的なイメージと表現スタイルが乱立しているのが日本の状況であろう。しかしその中でも、人間(作家本人)の存在についての不安といったものを、ある種グロテスクにディフォルメしたり、過剰なまでに細密に描いたり、マティエールに凝ったりするような表現が、在野系の公募団体でよく見られるのも事実だろう。その良質な例として本田希枝や遠藤彰子、小林裕児、わたなべゆうなどが挙げられようが、その代表者として玉川信一を選んだ。
 また特に公募展系の画家で、その独自のスタイルにより文字通り大衆的な人気を博している作家といえば、絹谷幸二、島田章三、三尾公三、櫃田伸也など挙げればきりがないだろうが、ここでは有元利夫を挙げた。
 山口啓介は現代日本美術展で3年連続受賞をして一躍脚光を浴びた。また1994年にはVOCA展に、1995年には安井賞展にそれぞれ出品しているというように多元的に解釈されているが、筆者自身は山口が銅版画によって、失われてしまった絵画本来のダイナミックで魅力ある空間を取り戻した点において、Part.2に入れるべき作家であると考えている。しかしPart.2をある程度抽象的形態でまとめたため、構成上Part.3にまわすことになった。
 星の場合は山口と逆に、一見抽象に見えるが、筆跡が一個の具体的なものとしてあること、またエアーブラシによって施された影により強烈な錯視的イリュージョンが現れており、具象としての理念を兼ね備えている。

 有元利夫(1946〜1985)
 「花降る日」(1977)、「古曲」(1977)、「晴れた日」(1978)など、6点を挙げ、この中世ヨーロッパのフレスコ画のように見える作品が、岩絵具という日本画の顔料によって描かれたことを紹介した。
 彼は意識的にひび割れや擦れ、剥落などを画面に作り出しているが、この風化によってできたようなマティエールは、逆に画面に永遠性を与え彼の絵画の魅力になっていることを説明した。

 山口啓介(1962〜)
 「水路−王の方舟」(1990)、「繭の記憶」(1991)、「Calder Hall Ship-Enora Gay2」(1994)など計5点を挙げた。彼はこれら巨大なスケールを持つ銅版画により、古代神話的なダイナミックな造形力とイメージを紡ぎだし、絵画的造形の魅力を蘇らせた。山口は版画により「絵画」の問題を提起していると述べた。1993年以降取り組んでいる絵画作品についても触れたが、最近の立体的な作品については触れなかった。

 星憲司(1957〜)
「Layer89-26」(1989)、「Layer 91038」(1991)、「Layer 95015」(1995)などを紹介し、「筆跡」そのものが物−記号−イメージとなって強烈に見る者に迫り、結果として絵画の表面を活性化させていることを述べた。そしてこのような多層な空間性を作り出すため星が独自に開発した手法を、その素材であるアクリル絵具の特質と絡めながら説明した。
 星も近年このトリッキーないわば絵画の虚構性を利用したスタイルから大きな転換を図り、直接のペインティングによる絵画、いわば絵画そのものに向かっているようだ。

 玉川信一(1954〜)
「二人の風景」(1983)、「震える風景」(1993)、「白の磔刑」(1995)などを挙げ、玉川がこの醜悪なまでにデフォルメされた人間像により、現代の荒涼たる孤独を浮き彫りにしていること、またそれが説得力を持つのは彼が西洋油彩画の正統的技法を駆使し、堅牢なマティエールを作り出しているためであると説明した。

5. おわりに

 ここで紹介したPart.1〜Part.3の作家たちは、単に現代の日本の絵画を紹介するために取り上げたわけではなく、筆者自身の制作の問題と深く関わっている。
 筆者はPart.1とPart.2の間に位置し、70年代後半に制作を開始したものである。当時の筆者自身の制作の問題とは、絵画の解体からどう回避し、自分を絵画にどう繋ぎ止めるかということであった。そのために絵画の不可能性のなかに居直るようなアイロニックな絵画を目指していた。そのあたりの事情は以前この論集に書いているので割愛するが、(拙著「絵画制作の理念とアクリル技法をめぐって(1)、(2)」を参照されたい。)その点でPart.1の作家やアメリカのポップアート、コンセプチュアルアートは重要であった。
 近年までそのニヒルな絵画観を引きずっていたが、2、3年前から徐々に絵画に対する信頼のようなものが芽生え、今は「無限の時間と空間が収斂する磁場」と呼べるような確かな存在としての絵画があるのではないかと思えるようになっている。その点でPart.2の作家の動向は気になるところである。ただ絵画に対する不信を簡単に拭い去ることはできず、Part.2の作家ほどあからさまにペインティングする事はできないのだが。
 その中で、今回ニューヨークの版画工房で一年間の制作を通じてこの「絵画」の問題を追求できたことは、一つの転換のタイミングを得たのではないかと思っている。また在外研修中、このような講演が持てたこともたいへん幸運であったし、これを通じシートン・ホール大学の教授、学生と交流できたことも有意義であった。

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