Japanese Contemporary Painters[2]芸術論集―シートン・ホール大学での講演より―

Japanese Contemporary Painters[2]

 ―シートン・ホール大学での講演より―
(島根大学教育学部美術科教育研究室/美術論集第5号/平成11年3月)

2. Part.1の作家について

 Part.1では1950〜60年代、アメリカを中心とする現代美術の興隆期にそのアメリカで活躍した日本人作家を取り上げた。
 日本の1950〜60年代とは「読売アンデパンダン展」などを通して、反芸術の運動が広まった時代であった。「読売アンデパンダン展」からは後に「具体」、「九州派」、「ハイレッドセンター」、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」などの「集団」が生まれ、それらの「集団」による反芸術・芸術崩壊運動の嵐が吹き荒れた。オブジェ、キネティック、パフォーマンス、ハプニングなど彼らの使った拡張された表現は“芸術の無化”に向かうものだった。芸術はそう信じられていたアプリオリな意味を失い、作品が芸術という意味を生み出せるのか、「芸術」と「作品」の関係が問題となった。
 筆者が取り上げた4人はこの日本の状況を背負って単身アメリカに渡り、それぞれ独自のスタイルにたどり着いた作家である。
 荒川は「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を結成(1960)し、呪術的なオブジェを発表した後、1961年アメリカに旅立つ。河原は「制作者懇談会」を結成(1955)。有名な《浴室》、《物置小屋の出来事》シリーズを残して1959年に日本を離れる。メキシコや欧米を遍歴の後、1965年にニューヨークに定住した。靉嘔は池田満寿夫とともに「グループ実在者」を結成(1955)。1958年にニューヨークに移住し「フルクサス」に加わった。池田満寿夫は「グループ実在者」での活動の後、東京国際版画ビエンナーレ(1962)での受賞で脚光を浴び、ニューヨーク近代美術館個展(1965)、ヴェネツィア・ビエンナーレ(1966)等での受賞を期に日本を離れ、ニューヨーク郊外イーストハンプトンに居を構えることになる。
 池田を除く3人が代表的スタイルを作り上げるのはいずれも渡米後のことである。荒川が「ダイヤグラム絵画」と呼ばれる図式的平面作品を最初に制作したのは1964年。河原がコンセプチュアルアートの代表作ともいえる「デイトペインティング」を始めたのが1966年。靉嘔が「レインボー」によるペインティングやオブジェに移ったのが1962年である。日本での集団的反芸術運動後にニューヨークで異郷人として生活し、その中でアメリカ現代美術との出会ったことが、彼らの芸術に決定的な影響を与えたことは疑う余地がない。(荒川は羽のシルエットのある平面作品を、靉嘔はポップの作品をすでに日本にいるうちから制作していたとしても。)そこには日本での活動を引きずらず、断ち切っていこうとする決意が感じられる。
 池田の場合、1966年頃からはそれ以前の落書き風なスタイルにポップ的な傾向が加わっている。これはアメリカ滞在の影響のように思える。しかしそれは決定的な変化であるとは思えない。それは池田自身が言っているように、池田の表現が「中間的」であり、「サブカルチュアー」をうまく取り込んでいるからで、彼が芸術の尖端的な領域を切り開いていくタイプの作家ではなかったからであろう。
 筆者が取り上げた4人の他に、当時新天地を求めてアメリカに渡った作家に、篠原有司男、磯辺行久、草間彌生、猪熊弦一郎、川島猛、川端実、近藤竜男、中里斉などがいるが、彼らが新しい芸術の中心、ニューヨークから国際的な活躍をする日本人の先駆けとなったのであった。

 それでは4人についての講演の概略を記しておくこととする。

 荒川修作(1936〜)
 スライドで「窓辺で」(1968)、「与えられたものNO.2」(1972)などを紹介し、言葉、矢印、記号、線、影などにより、人間の思考や知覚のあり方を図解した「ダイヤグラム絵画」について解説した。
 また渡米以前の「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」での活動や、グロテスクなセメント作品について触れ、最後に最近の大がかりな環境プロジェクト−身体的な活動により知覚される<空間>の問題を探求する作品−についても言及した。

 河原 温(1933〜)
 一連のデイトペインティング作品の一つである「NOV.21.1985−シリーズ『今日』(1966)から−」(1985)を中心に、さらに彼の他の代表作である「I GOT UP」series、「STILL I ALIVE」seriesも紹介して、とらえがたい時間と空間への目を構造化する、河原のコンセプチュアルアートの特質について概説した。
 また渡米以前の作品シリーズ「物置小屋の出来事」「浴室」にも言及した。

 池田満寿夫(1934〜1997)
 「タエコの朝食」(1963)、「化粧する女」(1964)などの初期の、ドライポイントのひっかき線が特徴的な落書きスタイルの作品から、ポップアートの影響が強い「バラはバラ」(1966)、リトグラフによる「マリリンの半分」(1968)、メゾチントの手法による「スフィンクスの肖像」(1970)へと年代を追って、版画の技法とスタイルの変遷を辿りながら、彼の代表作を紹介した。
 また陶芸や著述など彼の幅広い活躍についても言及した。

 靉嘔(1931〜)
 まず、渡米後の「フルクサスグループ」の一員としての活動を紹介した。
 そして「レインボーペインティング」による作品、「アダムとイヴ」(1963−64)、「レインボー北斎」(1970)や、虹のオブジェ「レインボーテーブルセット」(1966)、虹の一筆描き「The story of a line」(1981)などをスライドで示し、彼の虹による作品があくまで虹のフィルターを通して見た日常生活であり、これによって日常の意味を問うていると述べた。

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